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☆ぐんぐるぱーにゃ☆な暮らし

なんやかんやとたどり着いた、ぐんぐるぱーにゃ。当たり前のようで当たり前じゃない。そんな世界が、目の前に広がっている!ありがとう、そしてさようなら昔のわたし!これから始まる「わたしライフ」をこそこそと綴っていきます~

あとひと月

久々のブログ更新。

自由に使えていたWi-Fi環境が変わったから、というのもあるけど、今年に入ってからすっかり発信する意力を失ってしまった。

今まで前面に出ていたた外向きのエネルギーとは打って変わって、内向きの感情や思考と向き合うことになったもんだから、最近は体もすっかり弱体化。

扁桃腺は腫れるし、薬を飲んでおさまったかと思えば咳は止まらんし、あぁはやく健康体に戻りたい・・・

そういえば最近は気功もさぼりぎみだから、良い気をしっかり循環さないとなぁ・・・

 

いよいよ帰国までひと月を切った。

これまで突っ走ってきて、私もそろそろ帰り時かなという気はしている。

というよりむしろ早く帰りたい。

帰ってゆっくりお風呂につかりたい。

日本のお米と味噌汁、お漬物。

考えただけでほっこりする。

 

何より、自分のペースで生活をしたくてたまらない。

常に他人と生活するという少しずつの気遣いもまた、ストレスの原因になっている。

 

そんなわけで最近は彼のいる「ゲットー」でほとんどを過ごしているのだけど、ここもまたあまり良い環境ではない。

日光の入らない部屋と、住民共同のトイレ。

水場の整っていない環境。

部屋の中に何やら物音がするなぁと思えば、突然のねずみちゃんとの遭遇。

それでも人は慣れるもんだなぁと、初めてここに来た日を思い出す。

最近ではワンルームの部屋の彼の中でお風呂も覚え、ヌルヌルの共同バスルームでずっこけることもなくなった。

 

彼と出会い、これまで見えてこなかった本当のケニアの姿が徐々に見えてきた。

六回もケニアに来て、もう八年になるというのに、それでも見えていなかったこと。

 

ケニアはお金がある人にとってはいい国だけど、お金がない人には希望はないよ」

 

彼を見ているとその意味が分かる。

頑張っても頑張っても、いつまでも最低ラインの生活しかできないのは、彼が悪いのだろうか。

彼の努力が足りないのだろうか。

 

彼との未来を考える中で、私もそろそろ変わる必要があるのだなと思った。

この数年間、自分なりの道をひた走るなかで、眼はしっかりと養われたと思う。

正しいことなんかない。

自分が正しいと思ったことを、行動するのみだ。

 

残りのケニアの時間は、彼との時間に費やすことに決めました。

膨らませたい未来があるからね。

 

ハクナマタタ

年末から4日間、友人の家で過ごした。

ワンルームのその家には、シンク、シャワー、トイレはない。

料理は家の中にガスを持ち込んで、テーブルの上で料理をする。

建物内に水道はないから、水は外の水道から大き目のコンテナに汲んできて、その度にお金を払う。

手を洗うときにはコンテナから汲んだ水を手に注ぎ、それを洗面器が受け止める。

洗面器にたまった水は別の容器に移され、トイレを流す水として用いられる。

窓も小さいものがあるけれど開けることはできないし、日中でも電気をつけないといけないほど、日の光はほとんど入らない。

 

この生活がいいか悪いかのジャッジはできないけれど、私にとってはとてもハードだった。

何が一番難しいかって、プライベートなエリアを他の住人達と共有していること。

とりわけ外国人の私は人々の目に留まりやすく、おなかが痛くてトイレに駆け込むときにも人々の目にさらされていた。

バスルームの鍵も壊れていて、お風呂が終わった瞬間、風で扉が勝手に開くこともあった。

間一髪で素っ裸をさらすことは免れたが、外の人と目が合った時にはドキッとしてしまう。

共有スペースの掃除をする人がいないのか、ぬるぬるのバスルームの床でズルッとずっこけ、せっかく洗った体もまた洗う羽目になる。

洗面器に入れた水も衝撃で流れちゃうし。

そして、シンクが部屋になく手を洗うことが簡単にできないのは、思う以上にストレスだ。

ルシンガ島の時には少なくともプライバシーはあったし、水道はないもののキッチンは別にあったので、衛生面で不愉快を感じることは少なかった。

家の中が用途別に分けられていないというのは、こんなにも不便なものかと改めて思う。

 

この家の家賃は月5500シリング。(日本円で約6000円)

この友人の給料は月27000シリング。

税金等を引かれると、手元に残るのは約22000シリング。

給料から考えてなるべく手元にお金が残るようにするには、この部屋でも仕方がないのか、とがっくりしてしまう。

ブルブルの2LDKに住むジャトーにこの話をすると、彼女は言った。

 

うちは2LDKで家賃は月15000シリング。

バスルームもキッチンもシンクも家の中にあってプライバシーは守られている。

彼の27000シリングは給料としては悪くない方だし、わが家と変わらない。

しかもわが家は4人家族で、うち2人は学校に通っているからあれこれお金もかかる。

でも、今の家から出ていこうとは思わない。

生活は楽ではないけど、お金は何とかなる。

まずは自分たちが快適と思える環境に飛び込んで、その生活が継続できるようにあらゆる努力をする。

時にアップダウンもあるし、金銭的にどうしようもならないこともあったけど、でも家を引っ越すこともなくこうして今も何とかなってる。

スラムに住む人たちは、自分たちにはここしか住む場所はないと思ってる。

だからその生活から抜け出せないの。私の兄のように。

私たちの生活を見て兄は家は金持ちだと思ってるみたいだけど、家にもお金はないの。

でも大事なのは、いかに自分たちが覚悟を決めて、次の目標に自分自身を投じていくかよ。

 

数々の困難を潜り抜けてきたジャトーの言葉には説得力がある。

お金がないと話すジャトー。

確かに彼女のショップにお客さんがいるところはほとんど見たことがない。

でも、不思議と彼女の生活が苦しいようにも全く見えない。

お金がないなりにも彼女の生活は充足されていて、それが自信となって彼女からあふれているのだろうか。

 

何とかなる。

この魔法のような合言葉が、今はとっても頼もしく聞こえる。

そう、ここはハクナマタタの国。

何とかなる。

2016年

今年一年どんな年だったかと振り返ってみると、とにかく信じられない。

この何年も溜め込んできた想いやコツコツ動いてきて来た、そんなものすべてに決着をつけるというか、ちゃぶ台をひっくり返すようにすべてを投げ捨てるというか。

それくらい、縦にも横にもジャンプしまくって、目をつぶったまま嗅覚だけを頼りに、ぼうぼうの草むらを突き進んできた。そんな感じだ。

 

青年海外協力隊への応募と落選、

そこからケニア出発がなんとなく決まって、

氣功師養成講座で生命と氣について学んで、

何年かぶりにオールナイトで遊んでみたり、

時に都会のど真ん中で瞑想してみたり。

日本の社会のことを必死に考えて、

選挙とか、原発とか、沖縄基地とか。

それからパーマカルチャーに出会って少しだけ今後の方向性が見える中で、

ケニアに来てまずは医療キャンプだけど内心はそれからが本番で、

パーマカルチャーをさらに追求してみたり、

ラスタファリアンスピリチュアリティに影響を受けたり、

心をオープンにして自分自身が平和となって生きることを実践してみたり、

とにかく何もないところから探して探してここまできた。

 

ケニアに6カ月も来て何をしてるんだとケニア人に何度も聞かれたけど、私はただのホリデーとしか答えられなかった。

でも、本当はそうじゃないんだ。

今ここにいることの価値を私自身が一番認めているから、誰に何と思われようと、そんなことはどうでもいいんだ。

 

そして今年は、女性としての本能が長い眠りから目を覚ました年でもあった。

5年間遠距離恋愛をした彼。

彼のことはとっくに吹っ切れてはいるものの、そのインパクトは大きく、なかなか呪縛から抜け出せなかった。

でも、今年の私はもう真っ裸で砂浜を駆け回るような感じだ。

大得意の理性には少し黙ってもらって、心の動くまま、感じるままに恋をした。

思いもかけず、結婚について深く考えることにもなった。

人はなぜ結婚するのか。

結婚と恋愛は違うのか。

男性性と女性性の違いと役割分担についても考えた。

自分の気持ちが相手へ抱く愛なのか、自分を愛してほしいという欲なのか。

だだこの人を好きで一緒にいたいという気持ち。

この瞬間瞬間の気持ちが愛であり、その気持ちへのコミットメントと生活づくりが結婚の場だと知った。

そして好きという気持ちはただの感情であり、水のように流れていくものだから、今どんなに濃密な時間を過ごしたとしても明日は一緒にいられないという状況も、もうこれで会うこともないかもしれないという状況も、すべて受け入れることができた。

好きという相手への気持ちを自問自答する中で、私の中で越えられない壁となっている5年間の恋愛が、いかに執着と妄想に縛られていたかを知った。

 

気持ちが流れるものだと知った今、一つの愛に縛られる必要もない。

どこか農業のできる場所をベースに家庭を作りたくなるまで、結婚はいい。

そう思っていたはずなのに。

 

ここ来て思いもよらず出会うことになってしまった。

私はもう自分の気持ちがどう流れていくのかなんて分からないから。

そう伝えても、彼は私との未来をまっすぐと見ている。

その力強さは以前の私を見ているようで。

おそれていた母との関係も思い出す。

お金も愛も、ここにきて自分自身のコンプレックスと向き合うことになりそうだ。

 

こんなわけで、この1年に残してきた自分自身の軌跡を振り返りながら、これから続いていく道を思う。

でも、今どんだけ思っても、歩み始めてみないと分からないのだ。

 

人生の学びをもらった2016年に感謝して。

Money

お金は嫌いだった。

服も靴も最新の携帯もいらなかった。

お金なんか無くたって、とそのもの本質に価値を見出していたものの、最後にはお金という壁がいつも目の前に立ちはだかっていた。

お金と比べられないものを天秤にかけては、お金無しではどうにもならない無力さを感じていた。

企業モラルのない安かろう悪かろうな商品を買う事への後ろめたさも、それでも安いものに頼らざるを得ない経済事情も悔しかった。

こんな紙切れ。

そう思いながらも通帳の残高といつも相談する自分が嫌いだった。

お金に関してはいつも自己矛盾がつきまとっていたから、いつのまにかコンプレックスになっていたんだと思う。

 

そんなわけでビジネスには興味がなかったけれど、思いもかけない話が舞い込んできた。

とある民間企業でのビジネスの話。

もしかしたら世界のお金の方向性を少しだけ変えることができるかも、なんて妄想がふくらむ。

お金がポジティブなものになる可能性もある。

日本に帰ってどんな暮らしをしようか考えていた矢先だったのに、思いがけずワクワクしてしまっている自分に困惑する。

 

さぁどうしよう。

やっぱり先が読めない。

ケニア車事情

ナイロビにいて嫌なものの一つが渋滞である。

バスやマタトゥでどこかに出かけようとすると大体一度はタウンを経由するので、いつもタウンの周辺では車がスローになるか、動かない。

朝と夕方のラッシュ時は特にひどい。

日本の満員電車は動くのでまだいいが、車の場合はぴったりと止まってしまう。

サクサク進めば30分の道のりも、ひどい時には2時間。

これが通勤の往復となると1日のうち4時間を車内で過ごしていることになる。

2008年にはそれほどでもなかった渋滞が、2016年現在ではずいぶん悪化している。

それほど車の保有者が増えているということで、ケニア家庭の経済事情もずいぶん変化しているようだ。

ちなみに車種もずいぶん新しいものに変わった。

車に関して全く無知な私でも、2008年にはずいぶん「クラシック」な車だなぁと思ったほどだ。

聞いた話によると、7年以上古い車種には税金がさらにかかるようで、オンボロ車を安価に輸入するということが事実上規制されている。

そしてこっちの運転は、荒い。

車と車のの間をバイクが、トゥクトゥクが、時に別の車が縫うように走る。

ぶつかるじゃないかというほんのわずかの隙間をすれすれで通り抜け、いやいや無理だろうという車間に割り込みいつの間にか車体をねじ込んでいく。

いやいやあっぱれ、日本でペーパードライバーの私にはできない。

 

一週間前、ナイロビから少し離れた町ナイバシャへの道路で大きな爆発事故があった。

ローリー車の事故に巻き添えをくらった車が次々と炎上し、39人が亡くなった。

道路にスビード防止のバンプが設計されているいるケニアの道路はデコボコで、気づかずに突っ込むと思わぬ衝撃をくらう。

時に体が浮いて、天井に頭をぶつけて痛い思いをする。

ドライバーもハンドルを取られることもあるだろう。

車のボディも衝撃を受け続けているわけだから、いくらかは弱っているに違いない。

ドライバーの運転技術もそうだが、道路事情を含め数々の要素の結果、この国では車の事故(交通事故含め)が多いのだ。

 

そんな中、数日前タウン行きのバスに乗った。

いつもの大手のバス会社がなかなか来ないので、ちょっとしょぼめの小さなバス。

いつもの道路を走っていると、突如バスが横道にそれた。

ガソリンでも入れるのかと思いそのまま席に座っていると、隣の女性がいきなり席を立ちバスの外に出て行った。

なかなか再出発しないバスを待ちきれないのだろうと思い女性を目で追うと、運転席から煙が出ているのが見えた。

まずい。

数日前の爆発事故を思い出し、とっさに身の危険を感じたので慌てて席を立つと、同様にみんなが席を立ち始める。

こんな時に、横幅のある脚の弱いおばあさんがえっちらおっちらみんなの前を歩き、バスから逃げ出したい乗客の道をふさぐ。

早く早く、と思いながらなんとかバスを出ると、しばらくして煙はおさまった。

バスの外からよく見ると、運転席の下から明らかに燃料がだらだらと漏れ出している。

その周りに乗客たちが集まってその様子を見守っている。

私は引火する可能性も考慮して、できるだけその場から早く離れたかった。

近くでトゥクトゥクが「タウンタウン」と客を呼び込んでいたので、後ろに乗り込んだ。

トゥクトゥは通常で前に2人、後ろに4人が乗ってぎゅうぎゅうという感じだ。

私が乗り込んだトゥクトゥクにはすでにビッグママ2人が乗っていたので、私が乗った時点で後部座席は満員となった。

それなのに。

ドライバーはさらに1人のビッグママを後ろに押し込んだ。

私のスペースは0.5人分。体の4分の1分ずつに両隣のビッグママがかぶさるという形でトゥクトゥクは出発した。

タウンまではおそらく10分のはずだが、渋滞により1時間はその姿勢を余儀なくされた。

ほんとにもう、ナイロビは。

 

こんなわけで、最近は用事がない限りタウンには出ずブルブルの中で過ごすようにしている。

そろそろ田舎が恋しくなってきた。

LIFE

夜の11時にただビスケットを黙々と食べている自分がいる。

寝る前におやつはだめだとか、それでなくても今日はお酒を飲んで帰ってきたんだからとか、体に悪いとか美容に悪いとか、そんなんはどうでもいいのだ。

 

ケニアに来て出会った日本人がいる。

いくちゃん。

彼女とはエンブの団体を訪れた時に出会い、縁あってルシンガ島のワークキャンプに一緒に参加することになった。

各国からの参加者の中で唯一日本人同士だった私といくちゃんは、日本人独特のセンスを共有し合い、切磋琢磨してストレスの多いキャンプを乗り越えてきた。

二人でキャンプファイヤーの火を守りながらいろんな話をした。

日本の社会のこと、私とケニアとのこと、死んだ父のこと、彼女の婚約者のこと。

東北のボランティアで知り合ったいくちゃんとその彼。

誰かのために、と情熱を傾ける場で出会った二人が結ばれるなんて、本当に素敵だと思った。

お互いに尊敬し合い、将来を決めたのだろうと思った。

それなのに。

 

運命は残酷だ。

昨日の夜いくちゃんからメッセージを受け取った。

婚約者の彼が日本の雪山で遭難し、連絡が途絶えたままだということ。

あと数カ月の滞在を残し、いくちゃんは帰路についているということ。

こんな時にでも、最後にあいさつできずにすみませんと、顔文字を入れながら律儀に詫びをいれるいくちゃんの姿を想うと胸が痛かった。

遠い遠いケニアから、チケットが取れず数日身動きが取れずに、ぬぐい切れない不安な気持ちと闘っていたいくちゃん。

長い長いフライトを一人耐えていたいくちゃんを想うと、涙が出た。

 

そんな中、私は友人ジャトーに会いに行く約束をしていた。

近所のマーケットで服を販売するくジャトーとは、いつの間にか仲良くなり、一緒にジョギングしたり家を訪れたりする仲になっていた。

年も背丈も同じ、20代に苦労したという経験も同じだった。

今日は彼女の31歳の誕生日。

特別なことはできないけれど、せめて小さなプレゼントを渡しておめでとうと言ってあげたかった。

でも今日はなんだか気が重くて、せっかくの記念日に重苦しいのもなんだか悪い気がして、なかなか外に出られなかった。

時間が刻一刻と過ぎる中、ようやく夕方になって彼女のいるショップに向かった。

誕生日おめでとうの言葉と共にプレゼントを渡したり、写真撮影をしたり。

それから話し好きのジャトーは、2時間の間延々と話を続けた。

 

話は彼女の出身民族であるルオ人の話題に。

見栄っ張りなルオ人たちは、お金がなくても困っていないふりをしたり、抱えている問題に関しても本当のことを言わない。

彼女はルオ人の友人や従姉妹について話し始めた。

ルオ人の友人、従姉妹、親戚のおばさん。

彼らはみんな、病気になったりよくなったりを繰り返し、 その度にこれはマラリアだとか腸チフスだとか、色んな病名が出てきたという。

こんなに長期の間病気だなんて、まさか、HIV/AIDS。

彼女もをそれを疑いテストをしたのか尋ねたけれど、みんなポジティブだとは言わない。

結局病名ががはっきり知らされないまま、彼らは次々に命を落としていったという。

最期の状態はひどいもので、いつもの容姿が数日後には体は骨と皮だけになり、目は落ち込み、唇は腫れて、目も当てられない姿だったという。

数日前に電話で話した相手があっけなく死んだと知らされる、その虚しさ。

死後に近親者から知らされる病名。

HIVポジティブであることを受け入れず、薬をまともに飲もうとしない、その変な見栄と生きることへの諦めが、彼女にとってはなんとも悲しいことだったという。

HIVポジティブであってもきちんと薬を飲めば、がん患者よりも生存の可能性は高いのに、ばかばかしい。

ジャトーは悲しそうに語った。

ジャトーの生活もたやすいものではない。

子供を学校に通わせるために何とかお金を工面している、お母さんである。

それでもジャトーは、生きていれば何とかなる、何とかしようとすれば、何とかなる。

そう話した。

 

今日は彼女の誕生日。

帰りに一杯だけ、とクラブによってお酒を飲んだ。

私のおごりで一杯のはずが、彼女のおごりで二杯目、彼女のお兄さんが来て三杯になった。

昼間に撮った写真を見てゲラゲラ笑いながら。

涙が出るくらい笑ったのは久々だ。

今日という日をジャトーと過ごせてよかったと、心から思った。

 

寝る前に、雪山にいるであろういくちゃんの婚約者に電話をかけてみた。

彼の電話番号が私の携帯に残っているのをふと思い出したのだ。

ワークキャンプ中に、声が聴きたいだろうから電話してみたらと私の電話を貸してあげて、嬉しそうに彼と話していたいくちゃんの姿が蘇ってくる。

今、電話の向こうには、電源オフのアナウンスが冷たく流れている。

 

いくちゃん。

どうかいくちゃんが強くいられますように。

Nyayo House

一昨日、3カ月の観光ビザが切れそうなので、イミグレーションオフィスのあるNyayo Houseに行ってきた。

かつて8カ月間滞在していた時も、ここにきてビザの延長を行った。

必要な書類を書いて、申請料金の2000シリングを支払って、指紋をとって終了。

 

ただ、今回の手続きで少し違うのは、Alien Cardなるものを申請しなければならないということ。

これはケニアに滞在している日本人ドクターからのアドバイスで、彼はAlien Cardを持っていなかったために、出国時に罰金を支払わされたらしい。

よくよく調べてみると、ビザ延長は無料、Alien Cardが2000シリングだったとのこと。

ビザ延長に2000シリング支払った彼はAlien Card分の料金をくすね取られたことになる。

ケニアンめ、やりやがったな。

こんなことを聞いていたもんだから、ビザ延長の申請書と、Alien Cardの申請書を書いて、必要なパスポート写真も用意して、準備万端で臨んだ。

 

Nyayo Houseに着いた。

対応するのはしかめ面をした女性オフィサーだ。

嫌な予感がした。

「ビザの延長と、Alien Cardの申請をしたいんだけど」

そう伝えると、オフィサーの顔がますますしかめ面になった。

「誰にそんなこと聞いたの」

Alien Cardを持っていないくて空港でチャージされたことがあったから」

そう言うと、彼女はぶっきらぼうに壁の貼り紙を指して答えた。

「それはオンラインで手続きが必要だから、このアドレスでやってちょうだい」

オンラインで手続きするなんて寝耳に水だから、詳しく情報を聞こうとしても相手をしてくれない。

その場でスマホでアクセスしてみてもそのウェブサイトには繋がらず、ねぇ繋がらないんだけどと聞いても、きっと回線が混んでいるからと取り合ってくれない。

最終的には窓口の前にいると邪魔だからと追い払われてしまった。

ここが日本だったら優しいお姉さんか誰かが丁寧に対応してくれるのに、くそぅ…

 

結局その日はどうすることもできず、Nyayo Houseを後にした。

本当にウェブサイトが存在するのかも不安だった。

 

家に帰って、すぐにインターネットからアクセスしてみた。

すると、繋がった。

ウェブサイトにしっかりと記載があった。

 

ビザ延長 無料

Alien Card 2000シリング

 

やはりドクターの言った通りだ。

ビザの延長は本来はお金はかからず、通常支払う2000シリングはAlien Cardに必要なものだったのだ。

その手続きをしないと、自動的にそのお金はオフィサーたちのポケットに入ることになる。

おそらくオンライン化されたのも、役人たちのこうした汚職を防ぐためのものだろう。

正規の手続きがいかなるものか、だれもはっきりとは教えてくれないので不安は残るが、とりあえずオンラインを信用してビザ延長とAlien Cardのフォームを入力し、2000シリングをクレジットカードで支払った。

最終的には申請書と支払い済みレシートのPDFをプリントアウトし、パスポートにスタンプをもらうというのがどうも流れのようだ。

 

翌日の昨日は、まずネットカフェで必要書類をプリントアウトし、そのままNyayo Houseへ向かった。

これで大丈夫という反面、最終的な手続きが終わるまで気は抜けない。

Nyayo Houseに着くと、窓口には昨日と同じ女性オフィサーがいる。

私の姿を見ると、そのオフィサーは後ろのスタッフとスワヒリ語で「昨日の…」とささやき始めた。

私みたいな正規の手続きを踏もうとしてくる人間は嫌に違いない。

それでも臆さずに必要書類を提出した。

「ビザ延長の書類がないわ」

いやいやあるでしょ、ちゃんと見てと言って指さした。

「入国時のスタンプのパスポートのコピーがないわ」

いやいや普通いらんでしょ、IDのページのコピーはあるのに。

そう思いながらも、言われるがまま近くのコピー機で印刷し、提出した。

これでクリア。

必要書類にサインされ、隣の窓口へと促された。

 

そこでは何やらチェックされ、さらに隣の窓口へ。

しばらく待つから椅子に座って待っていろと言われ、促されるまま待合の椅子に座る。

待つこと20分、いきなりチアキ!と呼ばれたかと思うと、あっちで指紋をとって来いとぶっきらぼうに言い放ち、別の方向を指さした。

 

言われるがままに行ってみると、部屋がいくつかある。

どこに行ってよいのか分からないので、とりあえずできている列に並んだ。

順番が来て部屋に入り、ここで指紋を取るように言われたんだけど、と説明すると、ここは違うからNo.15の部屋に行けと促された。

部屋番号があるならはじめから言ってくれればいいのに…

不親切な対応に苛立ちながら、15の部屋に入った。

「ここで指紋を取るように言われたんだけど」

「名前を呼んだけどいなかったから、外で待っていなさい」

はぁ。

 

しばらくして私の名前が呼ばれた。

慣れた手つきでおじさんがインクの用意をし始めた。

両手の指すべてにインクを付けさせられ、用紙にペタペタと指紋が押されていく。

真っ黒になった手元に申請書の半券とお手拭き用の濡れティッシュを無言で渡され、おじさんは次人の名前を呼んだ。

え?終わり?次の手順は?

「すみません。最初のところに戻ればいいんですか」

おじさんはちらっとこっちを見て頷いた。

あぁほんとに、不親切だ。

 

最初の窓口には私のパスポートが預けてあるのでそこに戻った。

私の前には一人、同様の手続きに来たヨーロッパ人男性が並んでいる。

手書きで記入したビザ延長用紙と2000シリングを持って。

 

この人に正規の手続きの方法を教えてあげたかったがもう遅かった。

すでにしかめ面女性オフィサーと話をし、すんなりビザのスタンプをゲットしていた。

指紋を取られることもないまま。

支払われた2000シリングはいったいどこへ行くのだろうか。

彼は空港で更なるお金をチャージされることになるのだろうか。

 

彼に少し申し訳ない気持ちのまま、私の番が来た。

「あなたのやってること、見てるよ」

そんなまなざしで彼女を見つめたが、そんなことにも気付かないようだ。

罪悪感はあるのか、この人たちは。

役人がこんなんだから、ケニアはいつまでたってもトラブル・トラブル。

問題も解決されないままなのだ。

 

私のパスポートについにスタンプが押された。

何度も何度も日付を見て、3カ月の延長がされていることを確認した。

「帰っていいわよ」

そう言われて安堵の気持ちで帰ろうとしたが、いや、待った。

もう一度窓口に並びなおした。

Alien Cardはいつできるの?」

「8週間後に取りに来て」

「パスポートと半券を持ってきたらいいの?」

「そう」

よし、これですべてが完了。

ようやくほっと一息つくことができた。

それにしても、こんな対応を平気でやっているケニアのgovernance。

本当にしょうもない。