☆ぐんぐるぱーにゃ☆な暮らし

なんやかんやとたどり着いた、ぐんぐるぱーにゃ。当たり前のようで当たり前じゃない。そんな世界が、目の前に広がっている!ありがとう、そしてさようなら昔のわたし!これから始まる「わたしライフ」をこそこそと綴っていきます~

マサイマーケット(裏側編)

毎週末の土日はナイロビ市内の広場でマサイマーケットが開催される。

ここは民芸品、装飾品、楽器、布やアクセサリーが豊富で、ケニア人をはじめ外国人観光客でにぎわっている。

マーケットに並ぶ品物はどれもカラフル。

手作りで突っ込みどころのある品物や、自然素材をフルに使用しているものもあって、植物がこんな作品になるのかと感動したり、シュールで味のある品物も多い。

 

お店を見て回るのは楽しいんだけど、ここでの買い物はなかなか曲者である。

まず客引きが話しかけてくる、そしていつまでもついてくるということ。

話しかけてくるので無視するのもなぁと思って答えると、いつまでも話をやめない。

絶対にいらないというようなものも、これはどうだ、あれはどうだとしつこく食い下がる。

そして、よさげなものを見つけたとしても、かなりの高額を吹っかけてくる。

相場を知らないと交渉も難しく、倍以上の値段で買わされることもある。

そんな訳で、マサイマーケットを出る頃にはどっと疲れてしまうので、私は好んでマーケットを訪れることはなかった。

さっとウィンドーショッピングをして、本当に欲しいもの以外は素通り、できるだけ早くマーケットを出るようにしていた。

 

でも、ここ最近は違う目的でマーケットを訪れている。

知り合ったラスタファリアンの友人が広場の一角でお店を出しているので、彼に会いに行く目的で、予定のない日は遊びに行くのが恒例となった。

お店に着くとそばのベンチに座って話をしたり、スワヒリ語の本で勉強したりと、何をするでもないけれどただのんびりと週末の時間を過ごす。

そこに彼の友人たちも集まってくるので、新たに知り合いができる。

とりわけラスタと知り合いになることが格段に増え、ラスタファリアンについて私もずいぶん詳しくなった。

 

さて、お昼時になると、マーケットに出店するお店の人たちは各々ランチを取り始める。

ランチを作るママたちのところに出店者たちがお皿を持って列を作り、好きなメニューを好きなだけ盛ってもらうのだ。

大体メニューは同じで、牛肉シチュー、料理用バナナ、緑の野菜、お米、チャパティの5種。

これを何種類頼んでも、どんだけ盛ってもらっても100KSH(約100円)。

商売繁盛とはいかない出店者たちも、この時間を楽しみにしているようだ。

 

土曜の昨日は私もここに一人で並んだ。

一斉に私に向けられた奇異のまなざしはすぐに笑顔に変わり、お前もここで食うのか!と言わんばかりに列の真ん中に誘導された。

そして隣の男性が話しかけてきた。

「さぁこっちにおいで。何を食べるの?バナナと野菜?お肉は?チャパティもか。ママ、チャパティもあげて。ピリピリ(チリ)もいるのか、ケニア通だな、あはは」

珍しい日本人客に喜んでくれたみたいで、みんなが笑顔でこっちを見ている。

同じ釜の飯を食うってこういうことだなぁなんて、なんだかこっちもほっこりした気持ちになった。

こうしてお店を出す側の人とコミュニケーションをとってみると、買い物中に感じる外国人への壁みたいなのがどんどん剝がれていく。

 

ランチを食べて、友人のお店に戻った。

ラスタの中にはジャンべ(アフリカ太鼓)の演奏者もいて、私もやってみろと一緒に練習させられたりする。

でも、これが意外とおもしろい。

リズム感ないよ~なんて叩いてみると頭が空っぽになって、体でリズムを刻むのが異様に心地よいのだ。

ちょっとハマってしまった私に、

「お前もジャンべをやるべきだよ。日本に帰って演奏したらいいじゃないか」

こんなこと言うもんだから、うーんそれもありだなぁという気もしてくる。

帰る頃にはすっかりその気になっちゃって、月曜にラスタの工房に遊びに行くことになった。

私のスモールジャンべ、作っちゃおう。

ホームシック

ルシンガ島からナイロビに戻って4日が経った。

やることがあるうちはよかったけれど、ついにノープランの生活に戻ってしまった。

明日やることも、明後日やることも決まっていない。

そろそろネタも尽きてきた頃か。

 

そんな中で、帰りのフライトまであと10日に迫っている。

こっちかな、あっちかなと嗅覚だけを頼りにこの二カ月半は爆走し、なんだかんだで充実した日々を送ってきた。

はじめのうちはこの国に住みたくて住みたくて、何とかこの国に長くいられる方法を探していたけれど、ここ最近は今学んでいることをどうやって日本での生活に取り入れていこうかと、そんな妄想が膨らんでいる。

 

こんな状況なので帰国するにはちょうどよいタイミング。

のはずなんだけど。

 

何となく今の状況から、帰国日を延長することに決めてしまった。

歯磨き指導をもう少しやりたいと思ってはいたけれど、だからと言って帰りのフライトを放棄してしまうのもやりすぎかなぁなんて思ったりもして。

それでもいろんな人に延ばそうかなぁ、どうしようかなぁと相談するうちに、ビザの延長に協力してくれる人が現れたりして、自分の腹が決まらぬうちに自ずと延長が決まってしまった。

 

この感じ。

今回のケニア行きが決まった時とよく似ている。

自分で決めきれないうちに期限が迫り、いつの間にか仕事を辞めてケニアに行くと公表してしまっていた。

こういう時の流れには逆らわない方がよいと、経験が教えてくれている。

 

こうしてナイロビで次の動きを待っていると、次第に気が滅入ってくる。

昨日は本当に力が出ず、一日のほとんどをベッドの上で過ごした。

オユギスの村で鍼灸師のゆうたさんが、色んなことを考えすぎて気が頭に上ってしまっているのだろうと教えてくれた。

気が降りてこないわけだから丹田にも力がなくなり、足元は冷える。

私の冷え性もおそらく頭を使いすぎのところから来ているのだろうと、妙な確信がわいてくる。

そうそう、頭を使いすぎてるんだよ私。

でもそれが分かっただけでも進歩で、となると気を足元に落としてみようと、早速秘密の特訓が始まった。

 

少なくともこうして足元に集中するうちは頭で考えすぎることはないけれど、これを常にキープするのは至難の業だ。

ふと、ヴィッパサナー瞑想で学んだ「身随感」と「心随感」が頭に浮かんだ。

身体で感じる五感と、心で感じる感情は同じ感覚だということ。

心の方が五感よりも優れているという事はない。

それならば、あれこれ考えるのをやめて、風の音を聴いたり、草花を観たり、そういう瞬間をもっと大切にするべきじゃないのかとふと思った。

見えないものに想いを馳せるより、目の前の一瞬を大切にすること。

性格上、どうしても次のミッションを探そうとして悶々と考えてしまいがちだけど、ふと立ち止まって感じることもまた、大切なことなんだろう。

マインドフルネスというやつだ。

 

そうはいっても、恋しい日本。

笑いあった家族、友達。

優しい味のごはん。

あったかいお風呂。

穏やかな人のやさしさ。

 

ケニアに来て初めて、ホームシックになった。

いつもはケニアが好きで好きで、この国を離れたいなんて少しも思わなかったのに。

やっぱりこれまでと一味違う、ケニア。

日曜にナイロビに戻ってきた。

ルシンガ島で過ごした三週間は、パーマカルチャーの学びはもちろん、人との出会いに恵まれた時間だった。

ドイツ、イタリア、フランス、香港、チェコ、日本、ケニア。

バックグラウンドも年齢も異なる10人が集まって営む集団生活は、よいこともあれば上手くいかないこともある。

でも、自分の行動がいかに日本的な基準に基づいているのか、自分自身をフラットな目線で見直すいい機会でもあった。

当たり前だと思う事、それが正しいと思う事、こうあるべきだと思う事。

日本では「常識」の共通認識が、この場では通用しない。

この苛立ちの原因が自分自身の持つ価値基準だと気付いたとき、解決策は相手を責めることではなく、もっとシンプルだった。

ただ、心をオープンにして相手を受け入れること。

そうすれば、私自身が心穏やかで日々を過ごせるのだ。

 

さて、このルシンガでの生活で最も頭を悩ませたのが、水問題だった。

キャンプの始まった当初、私たちの生活用水はタンクの雨水を使用することになっていた。

しかし、10人の大所帯ともなると水の使用量は思ったよりも多い。

日照りが続いたこともあり、タンクの水レベルは3日を過ぎたころから急激に下がり、このままいけば水が底をついてしまうと予想された。

 

そこで、生活用水としてビクトリア湖の水を使用することになった。

私たちの生活する家の裏庭にドラム缶が設置され、そこにビクトリア湖から汲んできた水を溜めて使用するのだ。

8年前に参加した同様のキャンプでは、池から水を汲んできて自分たちで運んだ経験があったので、その生活の厳しさは十分に理解していた。

ただ、今回は水を買うことになったので、自分たちで運ぶ必要はなかった。

水を運んでくれるように人に依頼し、ロバに運ばせてドラム缶を水で満たしてもらうのだ。

 

ドラム缶が水でいっぱいになっているのを見てみんな安堵したが、それも長くは続かなかった。

一日が終わる頃には水量は半分になり、すでに明日、明後日のことが心配になった。

とりわけお風呂が気がかりだった。

みんなお風呂に入りたがったが、残りの水量を見ながら今日はは入れそう、やめておこうと決める。

農作業で流した汗を流せないというのはつらいけど、自分ばかりが毎日お風呂に入るわけにもいかないので、濡れタオルで体を拭いて我慢した。

 

一週間を過ぎたころから、大雨が降るようになった。

今ケニアは雨期。

だからといって一日中降るわけではないけれど、一定の時間にどかっと大雨が降る。

夜間に降った大雨が、半分以下に減ったドラム缶を満たしてくれることもあって、ドラム缶いっぱいの水を見た朝は、まだ大丈夫という安心感をもたらしてくれる。

雨と言えば鬱陶しいと思いがちだけれど、こんな状況に直面すると、雨という自然の恵みに心から感謝の気持ちが湧いてくる。

 

こんな生活でも長く続けると次第に体も慣れてきて、お風呂に入れないならまぁいいやという気持ちにもなってくる。

洗濯はドラム缶の水を使うのをやめて、直接ビクトリア湖にバケツと洋服を持って行って、そこで洗濯をするようになった。

ビクトリア湖の湖岸には、洗濯をする人、真っ裸になってお風呂に入る人もいる。

私ももうここでお風呂に入ったらいいんじゃないかと思うようになってはいたけれど(どうせ使っている水は同じだし)、なんとなく寄生虫バクテリアが不安でどっぷり浸かるのはやめておいた。

でも、入っててもよかったのかな、なんてちょっと思ったりもする。

 

ナイロビに戻って、温水シャワーを浴びる生活に戻った。

快適なんだけど。

 

私が一番好きなお風呂は、ルシンガ島の後に訪れた、知人のゆうたさんの家のお風呂だな、と改めて思った。

たらい一杯の水を、少しずつ沸かした熱湯と混ぜて熱めのお湯にする。

シャワーの代わりにカップでお湯をくんで体に注ぐと、その熱さが日本のお風呂に入っているようでとても気持ちがいい。

シャワーよりも心温まる日本のお風呂。

恋しいな。




寄付

ブルブルを歩いていたら、突然中年のケニア人男性に呼び止められた。

いつものように足を止め挨拶しようと思ったら、そのケニア人は勢いよく話し始めた。

 

あなたは日本人?

10年ほど前に日本に行ったことがあるんだけど、一つ聞きたいことがあるんだ。

 

私が相槌を打つ暇もなく、そのケニア人は続けた。

 

私は国際赤十字で働いているから仕事でいろんな国に行くんだけど、

日本はあんなにお金持ちの国なのに、なんでみんなお金を寄付してくれないんだ?

ヨーロッパへ行けば寄付を呼びかければすぐに、しかも多額の寄付をしてくれるのに、

日本のあれはいったいどうしてなんだ?

難民や貧困や困った人が大勢いるというのに、どうでもいいと思っているのか、現状を知らないだけなのか。

 

あまりに予想外のことを聞かれ、私は絶句した。

そして何と答えたらいいのか返事に困った。

 

彼は続けた。

 

ケニアは日本に比べたらずっと貧しい。

でも、寄付を募れば少ないお金の中から出し合って助け合うんだ。

それなのに日本では多くの人が首を横に振っていたよ。

私は予想していなかったので、驚いてしまったよ。

 

うーん。何と答えよう。

少しずつ言葉を選びながら、答えた。

 

確かに寄付の文化はあまり日本には根付いていないと思います。

だからといって日本人が冷たいわけじゃないですよ。

震災で困った時なんかは寄付が集まりますし。

寄付先の団体を不審に思うこともありますし。

でも、難民や貧困なんかの世界の現状に関して無関心な人は多いと思います。

 

そう言いながら、私も国内の震災時にしか募金に協力したことがないなぁと肩身の狭い思いをした。

支援のあり方として、お金、マンパワー、いろいろあるから、自分にできることをすればいい。

そう思ってきたのだけれど。

 

ケニアにいると欧米から来たボランティアが、帰国後に寄付を募って施設の援助をしていたり、金銭面のバックアップをしていることもよくある。

こういうときに寄付を呼び掛けて、それに応えてパッとお金を出すのが欧米の文化なんだろう。

 

でもこれって、日本はそういう文化じゃないから、と終わらせていい話なんだろうか。

少なくとも、この男性と話をしながらバツの悪い思いをしたのは確かで。

私自身、お金をもっとオープンに使う必要があるのかもしれないなぁと、そんな思いが湧いてきた。

なんせ日本のお金は、錬金術のように大金に化ける。

 

昔はこのお金の価値の差が悔しくて仕方がなかった。

ケニアの人がどんだけ頑張って働いても、日本のわずかなお金にも届かないのだ。

天秤にかけられないものをお金に換算してその価値を図るやり方に、当時はずっと心の中で抵抗していた。

うーん、すごい20代だったな。

 

とりあえず、その赤十字のおじさんとはずいぶん話がはずんでしまって、私がナイロビに戻ってきたらまた会う約束をした。

 

明日からナイロビを離れ、三週間の島生活が始まる。

 

 

 

GIVE

先日、マダレスラムの小学校で歯磨き指導を行った。

この小学校を最初に訪れたのは約三週間前。

友人のギブーにスラムを案内ししてもらい、この小学校に連れてきてもらった。

なぜ戻ってくるのに三週間もかかったのかというと、

一つはパーマカルチャーを追いかけて旅をしていたという事。

もう一つは自信がなかったという事。

昨年ルアイの孤児院で子供相手に歯磨き指導をしてみたけれど、いまいち反応がよくなかった。

大人相手ならば説明するのは比較的簡単だけれど、子供はハートをつかむのが大事。

だから今回はどうしようかなぁと考えあぐねた挙句、開催の日程をずいぶん先送りしてしまった。

でもその間にしっかり準備ができたことも確かで、一冊の絵本を翻訳する間にずいぶんスワヒリ語のしくみも分かってきた。

これはその副産物としてしっかり受け取ろう。

 

今回の歯磨き指導。

一番良かったのは、ローカルの心強いパートナー、ベティがいたということ。

私の言葉足らずな所はしっかりと補ってもらい、分かりにくそうなところはスワヒリ語で説明してもらった。

前回のように孤立無援の状態ではなく、しっかりとした後ろ盾を得て、私自身楽しみながら教えることができた。

質問を投げかけると我先にハイハイと手を挙げて満面の笑みで答えてくれる。

デモンストレーションで前に出てやりたい子を募れば、一斉に手が挙がる。

自分の小学校時代を思い出せば、間違えることや人前に出ることが嫌でしかたがなかった。

こんな風に反応が返ってくる喜びを知ると、もっと授業に積極的に参加すればよかったなぁなんて、学校の先生方に申し訳ない気持ちが湧いてくる。

なぜあの時、このケニアの子たちのように楽しんで学ぶことができなかったんだろうと今更ながら思うけど、きっともうずっと幼いころから、周りの目を気にして生きてきのだろう。

周りの目、世間の目。

日本にいればいつの間にか染み付いてくるこの外からのプレッシャーは、ほんとは自分で作り出した幻だったのだと、今ふと思う。

 

幼稚園クラスの歯磨き指導にはまだ課題は残るものの、一つの実施例から課題を生み出せたこともまた、ひとつ成果だ。

そして協力者のベティも次の開催にとても意欲的で、ぜひ一緒にやりたいと言ってくれている。

今後もしかしたら活動が広がるのかなぁなんて、先のビジョンがぼんやりと見えてきた。

 そして、学校の先生、キリスト教のビショップの方もまた、今回の指導をとても喜んでくださった。

 

見てください、あなたの与えたインパクトを。

 

その視線の先には、ランチの後に一生懸命に歯を磨く子供たちの姿があった。

私にしてみたら、ほんの些細なことしかできないと思っているのだけど、それでも何か一つを変えられるのなら、本当にうれしい。

 

帰り際に、校長先生が袋を持っているか尋ねてきたので、カバンに入っていたスーパーの袋を差し出した。

すると彼女はその袋に豆とお米を入れた。

この学校はもうすぐ終業式を迎えるから、食べ物が悪くならないように持って帰ってちょうだい。

ついこの間寄付の食物をもらったばかりでたくさんあるから、と。

マダレスラムに住むベティならともかく、私がもらうのはなんだか悪いような気がして、私はいいからみんなで分けてちょうだいと言った。

すると校長先生は一言だけこう答えた。

 

I learned how to GIVE from my mother.

私はお母さんから「与えること」を学んだのよ。

 

'GIVE'

なんだかこの言葉が感慨深かった。

私が行っていることもGIVEで、そしてそれがGIVEとして跳ね返ってくる。

与えて、与えて、それが世の中を回っていく。

それは単なる報酬としてのRETURNではなく、その人の愛が込められている。

そうして回るGIVEは代替として、時にお金に換算されるのだろう。

仕事もそうだ。

自分が何をGIVEできるか。

会社側もフェアにGIVEするのなら、安月給も過労も、ほんとはないはずなのに。

いろんなことが頭をめぐる、GIVEの学び。

 

キベラスラムで考えた

キベラスラムに初めて足を踏み入れた。

思ったほど環境はひどくない。

それでも土壁、トタン屋根の家がひしめき合うように立ち並び、

日中でさえ陽の光も差し込まないような場所で家族が肩を寄せ合って生活している。

その姿に悲壮感はなく、そこには生き生きとした「生」があるだけだ。

彼らをかわいそうと呼ぶのがふさわしいのかは分からない。

ただ、私はキベラスラムに来ることができて、彼らは私の住む場所に来ることはできない。

私はスラムの生活を観察して、そしてトイレ、お風呂のある一軒家へと帰ってゆく。

とあるママのお家に招き入れてもらったが、私がなぜその家にいるのか、じろじろと人の家を観察しているのか、果たしてここに来る意味があったのか分からなかった。

 

 

昨日ブルブルの友人と話をした。

床屋さんを営むその彼。

大量についた歯石を見て、それは取った方がいいよと勧めるのだけれど、お金を払ってまで歯石をとりたくないという。

チアキ、それが「必要」だと思う人間もいれば、「贅沢品」だと思う人もいるんだよ。

特にここケニアではね。

 

今痛みがあってどうしようもなくなれば病院へ行くだろう。

でも、先手を打って病院へ行くことはしない。

床屋さんのその彼は私よりも一つ年下で、でも、もし歯がなくなったらそれまでだ、そう話していた。

この歯石をとればリスクが減らせるのに。

そう思いながら、もどかしかった。

でも、それが実情なのだろう。

こんな考えのケニアの人たちを相手に、ほんとに歯磨き指導なんかやる意味があるのだろうか。

今この一日を生きるケニア人に、先の未来のために予防を考えろというのは、私の自己満足ではなかろうか。

そう思い始めていた。

 

今日キベラスラムを案内してくれた30代後半?の男の人。

彼は上下の前歯を失っていた。

私たちが揚げたてのアンダジ(かたい揚げパン)をほおばる中、彼はいらないと言った。

歯がないから嚙めないんだよ。

 

おいしいものを食べられない。

だからと言って入れ歯を作ることもできない。

やっぱりここでは予防するしかない。

 

いろいろ意見はあるのだろうけど、私がいいと思ったことをやる。

一人でも誰かの心に留まり、行動が変えられるように。

おとん

久々に夢を見た。

おとん。

夢の中ののあなたも、病気で苦しんでいましたね。

やはりあなたの存在は、いのちとは、生きるとはについて教えてくれる。

もう今頃は、どこかに生まれ変わっているのかしら。

一目会えたら、と思うけれど。

二人きりでしたケニア旅行を、ここにいる間はずっと思い出すんだよ。

 

去年書いた日記を、忘れないように。

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おとんといえば、仕事用の青い作業服。
釣りが好きで、ビールが好きで、潮干狩りが好きで。
癖で鼻をほじっては母に怒られていた。

麺が好きだから「麺きち」、
子供のような大人だから「おども」。
これが我が家での愛称だった。
「お父さん」と最後に呼んだのはいつだったか。
いつのまにか、おとんはおとんになった。

大した学歴はなかった。
高校を出て国鉄に入社し、当時血気盛んな労働組合で精力的に活動していた。
国鉄の解体を機に仕事を辞め、名古屋から敦賀にやってきた。
男の人には珍しく、婿養子だった。
敦賀に来たと同時に、名前も鷲見から濱村になった。
そこにこだわりはなかった。

自分から立ち上がるタイプではなかった。
でも、人からの頼み事を断ることはなかった。
地元の消防団、地域の壮年会。お寺の檀家業。
学校のPTA会長を務めたこともあった。
誰もが煩わしいと思うことをいつの間にか引き受けていた。
母は断ればいいのに、とぼやいていた。

今年に入り、急速に脚が動かなくなった。
そしてついに立てなくなった。
それでも布団で寝たきりでいるわけにはいかないと、車輪付きのすのこに座椅子を自ら縛り付けた。
痛みをこらえてそこによじ登り、おとん主導のもと居間までの大移動が行われた。
すのこでガラガラ引かれるおとん。
母と二人、こんな時に不謹慎だけど、妙な光景に吹き出してしまった。

人前で泣く人ではなかった。
実父が他界した時でさえ、声を震わせることはなかった。
入院中も、こんな情けない姿を見せられないと、病状を公にはしなかった。
それでも来てくれる会社の一部の人には、こんなことになってすんません、と謝っていた。
家に帰りたいかと聞いても、そんな大変なことはせんでもいい、
病院に運ばれた時からもう帰れないことは分かっていた、と言った。

いつの間にか、すんませんとありがとうが口癖のようになった。
看護師さんが病室に来るたび、テレビやラジオのスイッチを切った。
じっと静かに仕事が終わるのを待ち、毎回お礼の言葉を口にした。
毎週末大阪から病院に駆けつけ泊まるたびに、すまんなぁ。
手を、脚を洗うたびに、氷枕を替えるたびに、歯を磨くたびに。
申し訳そうなおとんを見て、胸が痛かった。
すまんことなんて一つもなかった。

ある晩、苦しくてどうしようもなくなったら眠る薬を使いたいと言った。
そして余計な点滴などせずに、死んだら死んだでそれでいいと言った。
そうしてもいいか、と聞かれたので
おとんが望むならそれでいいよと答えた。
翌朝の回診で、主治医の先生に自らその方針を伝えた。

それから一週間。

今から例の薬を入れるから早く連絡をちょうだいと母からメールが来た。
眠ってしまったらもう話をできないからと。
こんな時に充電の切れそうな携帯を握りしめて、泣きながら駅の公衆電話に向かった。
おとん、弱々しい声で、自慢の娘だ、よかったと言った。

3日後、心拍数が落ちていった。
ずっと苦しんだ痰のせいでもなく、母に泣いて引き留められるわけでもなく、妹ひとりに見守られ穏やかに息を引き取った。
駆けつけた時にはまだ少し温かかった。
母と妹と。みんなでおとんの体を拭いた。
初めて見た背中の大傷、オペ後二か月も経つのに塞ぎきらない傷。
あんな大きなオペをして、抵抗力のない体で。
そりゃ痛いよね、苦しいよね。
おとん、がんばった。

おとんが薬を使ってもいいかと言った晩、ふたりきりの病室でこんな話をした。
こんな風に苦しみながらではあるけど、想いを伝えることができてよかった、
年功序列で、おじいの次に逝くのが自分でよかった、
こんな大病をするのが、家族の誰でもなく自分が引き受けてよかった、と。

姉夫婦にも、病室で教え諭す姿があった。
何があっても子供は最優先だ、自分たちの事情は二の次だと。
声はかすれて弱々しかったけれど、そんなこと気にも留めず延々と繰り返す。
その姿には凄まじさを感じた。
こだわりや執着を見せないおとんの信条。

何よりも子供が、いちばん。

 

おとんを思い出すとき、真っ先にこの闘病生活が頭に浮かぶ。
親孝行などできなかった。
心配ばかりかけて、花嫁姿も孫の顔も見せてあげることができなかった。

その代わり、思いつく限りの全てのことをした。
呼吸が苦しい時には、おなかを押して呼吸を手伝い、
眠れないときには安眠効果のある音楽を流し、
だるくて居ても立っても居られない時には、体をさすり、
体のことを知るために、東洋医学を勉強し、
がんの進行を抑えるために、食事療法を研究し、
心が苦しまずにすむように、ありとあらゆる本を読んで、おとんに伝えた。

全身全霊をこめた愛情、伝わってるかな。
きっとそのはず。


今年もまたケニアに行きます。出発は三日後。
おとんが見せた父親の姿。最後の教え。
そのとてつもなく巨大なものを受け取って、またひとつ強くなった。
おとんにはかなわないとは思うけれど。

今年はひとあじ違う自分。
ケニア出発前の浮足立った気持ちもなく、ただ淡々とその日を待っている。
現地で一体何を思うだろう。
自分でもわからない。

(2015.9.8)