☆ぐんぐるぱーにゃ☆な暮らし

なんやかんやとたどり着いた、ぐんぐるぱーにゃ。当たり前のようで当たり前じゃない。そんな世界が、目の前に広がっている!ありがとう、そしてさようなら昔のわたし!これから始まる「わたしライフ」をこそこそと綴っていきます~

Nyayo House

一昨日、3カ月の観光ビザが切れそうなので、イミグレーションオフィスのあるNyayo Houseに行ってきた。

かつて8カ月間滞在していた時も、ここにきてビザの延長を行った。

必要な書類を書いて、申請料金の2000シリングを支払って、指紋をとって終了。

 

ただ、今回の手続きで少し違うのは、Alien Cardなるものを申請しなければならないということ。

これはケニアに滞在している日本人ドクターからのアドバイスで、彼はAlien Cardを持っていなかったために、出国時に罰金を支払わされたらしい。

よくよく調べてみると、ビザ延長は無料、Alien Cardが2000シリングだったとのこと。

ビザ延長に2000シリング支払った彼はAlien Card分の料金をくすね取られたことになる。

ケニアンめ、やりやがったな。

こんなことを聞いていたもんだから、ビザ延長の申請書と、Alien Cardの申請書を書いて、必要なパスポート写真も用意して、準備万端で臨んだ。

 

Nyayo Houseに着いた。

対応するのはしかめ面をした女性オフィサーだ。

嫌な予感がした。

「ビザの延長と、Alien Cardの申請をしたいんだけど」

そう伝えると、オフィサーの顔がますますしかめ面になった。

「誰にそんなこと聞いたの」

Alien Cardを持っていないくて空港でチャージされたことがあったから」

そう言うと、彼女はぶっきらぼうに壁の貼り紙を指して答えた。

「それはオンラインで手続きが必要だから、このアドレスでやってちょうだい」

オンラインで手続きするなんて寝耳に水だから、詳しく情報を聞こうとしても相手をしてくれない。

その場でスマホでアクセスしてみてもそのウェブサイトには繋がらず、ねぇ繋がらないんだけどと聞いても、きっと回線が混んでいるからと取り合ってくれない。

最終的には窓口の前にいると邪魔だからと追い払われてしまった。

ここが日本だったら優しいお姉さんか誰かが丁寧に対応してくれるのに、くそぅ…

 

結局その日はどうすることもできず、Nyayo Houseを後にした。

本当にウェブサイトが存在するのかも不安だった。

 

家に帰って、すぐにインターネットからアクセスしてみた。

すると、繋がった。

ウェブサイトにしっかりと記載があった。

 

ビザ延長 無料

Alien Card 2000シリング

 

やはりドクターの言った通りだ。

ビザの延長は本来はお金はかからず、通常支払う2000シリングはAlien Cardに必要なものだったのだ。

その手続きをしないと、自動的にそのお金はオフィサーたちのポケットに入ることになる。

おそらくオンライン化されたのも、役人たちのこうした汚職を防ぐためのものだろう。

正規の手続きがいかなるものか、だれもはっきりとは教えてくれないので不安は残るが、とりあえずオンラインを信用してビザ延長とAlien Cardのフォームを入力し、2000シリングをクレジットカードで支払った。

最終的には申請書と支払い済みレシートのPDFをプリントアウトし、パスポートにスタンプをもらうというのがどうも流れのようだ。

 

翌日の昨日は、まずネットカフェで必要書類をプリントアウトし、そのままNyayo Houseへ向かった。

これで大丈夫という反面、最終的な手続きが終わるまで気は抜けない。

Nyayo Houseに着くと、窓口には昨日と同じ女性オフィサーがいる。

私の姿を見ると、そのオフィサーは後ろのスタッフとスワヒリ語で「昨日の…」とささやき始めた。

私みたいな正規の手続きを踏もうとしてくる人間は嫌に違いない。

それでも臆さずに必要書類を提出した。

「ビザ延長の書類がないわ」

いやいやあるでしょ、ちゃんと見てと言って指さした。

「入国時のスタンプのパスポートのコピーがないわ」

いやいや普通いらんでしょ、IDのページのコピーはあるのに。

そう思いながらも、言われるがまま近くのコピー機で印刷し、提出した。

これでクリア。

必要書類にサインされ、隣の窓口へと促された。

 

そこでは何やらチェックされ、さらに隣の窓口へ。

しばらく待つから椅子に座って待っていろと言われ、促されるまま待合の椅子に座る。

待つこと20分、いきなりチアキ!と呼ばれたかと思うと、あっちで指紋をとって来いとぶっきらぼうに言い放ち、別の方向を指さした。

 

言われるがままに行ってみると、部屋がいくつかある。

どこに行ってよいのか分からないので、とりあえずできている列に並んだ。

順番が来て部屋に入り、ここで指紋を取るように言われたんだけど、と説明すると、ここは違うからNo.15の部屋に行けと促された。

部屋番号があるならはじめから言ってくれればいいのに…

不親切な対応に苛立ちながら、15の部屋に入った。

「ここで指紋を取るように言われたんだけど」

「名前を呼んだけどいなかったから、外で待っていなさい」

はぁ。

 

しばらくして私の名前が呼ばれた。

慣れた手つきでおじさんがインクの用意をし始めた。

両手の指すべてにインクを付けさせられ、用紙にペタペタと指紋が押されていく。

真っ黒になった手元に申請書の半券とお手拭き用の濡れティッシュを無言で渡され、おじさんは次人の名前を呼んだ。

え?終わり?次の手順は?

「すみません。最初のところに戻ればいいんですか」

おじさんはちらっとこっちを見て頷いた。

あぁほんとに、不親切だ。

 

最初の窓口には私のパスポートが預けてあるのでそこに戻った。

私の前には一人、同様の手続きに来たヨーロッパ人男性が並んでいる。

手書きで記入したビザ延長用紙と2000シリングを持って。

 

この人に正規の手続きの方法を教えてあげたかったがもう遅かった。

すでにしかめ面女性オフィサーと話をし、すんなりビザのスタンプをゲットしていた。

指紋を取られることもないまま。

支払われた2000シリングはいったいどこへ行くのだろうか。

彼は空港で更なるお金をチャージされることになるのだろうか。

 

彼に少し申し訳ない気持ちのまま、私の番が来た。

「あなたのやってること、見てるよ」

そんなまなざしで彼女を見つめたが、そんなことにも気付かないようだ。

罪悪感はあるのか、この人たちは。

役人がこんなんだから、ケニアはいつまでたってもトラブル・トラブル。

問題も解決されないままなのだ。

 

私のパスポートについにスタンプが押された。

何度も何度も日付を見て、3カ月の延長がされていることを確認した。

「帰っていいわよ」

そう言われて安堵の気持ちで帰ろうとしたが、いや、待った。

もう一度窓口に並びなおした。

Alien Cardはいつできるの?」

「8週間後に取りに来て」

「パスポートと半券を持ってきたらいいの?」

「そう」

よし、これですべてが完了。

ようやくほっと一息つくことができた。

それにしても、こんな対応を平気でやっているケニアのgovernance。

本当にしょうもない。

マサイマーケット(裏側編)

毎週末の土日はナイロビ市内の広場でマサイマーケットが開催される。

ここは民芸品、装飾品、楽器、布やアクセサリーが豊富で、ケニア人をはじめ外国人観光客でにぎわっている。

マーケットに並ぶ品物はどれもカラフル。

手作りで突っ込みどころのある品物や、自然素材をフルに使用しているものもあって、植物がこんな作品になるのかと感動したり、シュールで味のある品物も多い。

 

お店を見て回るのは楽しいんだけど、ここでの買い物はなかなか曲者である。

まず客引きが話しかけてくる、そしていつまでもついてくるということ。

話しかけてくるので無視するのもなぁと思って答えると、いつまでも話をやめない。

絶対にいらないというようなものも、これはどうだ、あれはどうだとしつこく食い下がる。

そして、よさげなものを見つけたとしても、かなりの高額を吹っかけてくる。

相場を知らないと交渉も難しく、倍以上の値段で買わされることもある。

そんな訳で、マサイマーケットを出る頃にはどっと疲れてしまうので、私は好んでマーケットを訪れることはなかった。

さっとウィンドーショッピングをして、本当に欲しいもの以外は素通り、できるだけ早くマーケットを出るようにしていた。

 

でも、ここ最近は違う目的でマーケットを訪れている。

知り合ったラスタファリアンの友人が広場の一角でお店を出しているので、彼に会いに行く目的で、予定のない日は遊びに行くのが恒例となった。

お店に着くとそばのベンチに座って話をしたり、スワヒリ語の本で勉強したりと、何をするでもないけれどただのんびりと週末の時間を過ごす。

そこに彼の友人たちも集まってくるので、新たに知り合いができる。

とりわけラスタと知り合いになることが格段に増え、ラスタファリアンについて私もずいぶん詳しくなった。

 

さて、お昼時になると、マーケットに出店するお店の人たちは各々ランチを取り始める。

ランチを作るママたちのところに出店者たちがお皿を持って列を作り、好きなメニューを好きなだけ盛ってもらうのだ。

大体メニューは同じで、牛肉シチュー、料理用バナナ、緑の野菜、お米、チャパティの5種。

これを何種類頼んでも、どんだけ盛ってもらっても100KSH(約100円)。

商売繁盛とはいかない出店者たちも、この時間を楽しみにしているようだ。

 

土曜の昨日は私もここに一人で並んだ。

一斉に私に向けられた奇異のまなざしはすぐに笑顔に変わり、お前もここで食うのか!と言わんばかりに列の真ん中に誘導された。

そして隣の男性が話しかけてきた。

「さぁこっちにおいで。何を食べるの?バナナと野菜?お肉は?チャパティもか。ママ、チャパティもあげて。ピリピリ(チリ)もいるのか、ケニア通だな、あはは」

珍しい日本人客に喜んでくれたみたいで、みんなが笑顔でこっちを見ている。

同じ釜の飯を食うってこういうことだなぁなんて、なんだかこっちもほっこりした気持ちになった。

こうしてお店を出す側の人とコミュニケーションをとってみると、買い物中に感じる外国人への壁みたいなのがどんどん剝がれていく。

 

ランチを食べて、友人のお店に戻った。

ラスタの中にはジャンべ(アフリカ太鼓)の演奏者もいて、私もやってみろと一緒に練習させられたりする。

でも、これが意外とおもしろい。

リズム感ないよ~なんて叩いてみると頭が空っぽになって、体でリズムを刻むのが異様に心地よいのだ。

ちょっとハマってしまった私に、

「お前もジャンべをやるべきだよ。日本に帰って演奏したらいいじゃないか」

こんなこと言うもんだから、うーんそれもありだなぁという気もしてくる。

帰る頃にはすっかりその気になっちゃって、月曜にラスタの工房に遊びに行くことになった。

私のスモールジャンべ、作っちゃおう。

ホームシック

ルシンガ島からナイロビに戻って4日が経った。

やることがあるうちはよかったけれど、ついにノープランの生活に戻ってしまった。

明日やることも、明後日やることも決まっていない。

そろそろネタも尽きてきた頃か。

 

そんな中で、帰りのフライトまであと10日に迫っている。

こっちかな、あっちかなと嗅覚だけを頼りにこの二カ月半は爆走し、なんだかんだで充実した日々を送ってきた。

はじめのうちはこの国に住みたくて住みたくて、何とかこの国に長くいられる方法を探していたけれど、ここ最近は今学んでいることをどうやって日本での生活に取り入れていこうかと、そんな妄想が膨らんでいる。

 

こんな状況なので帰国するにはちょうどよいタイミング。

のはずなんだけど。

 

何となく今の状況から、帰国日を延長することに決めてしまった。

歯磨き指導をもう少しやりたいと思ってはいたけれど、だからと言って帰りのフライトを放棄してしまうのもやりすぎかなぁなんて思ったりもして。

それでもいろんな人に延ばそうかなぁ、どうしようかなぁと相談するうちに、ビザの延長に協力してくれる人が現れたりして、自分の腹が決まらぬうちに自ずと延長が決まってしまった。

 

この感じ。

今回のケニア行きが決まった時とよく似ている。

自分で決めきれないうちに期限が迫り、いつの間にか仕事を辞めてケニアに行くと公表してしまっていた。

こういう時の流れには逆らわない方がよいと、経験が教えてくれている。

 

こうしてナイロビで次の動きを待っていると、次第に気が滅入ってくる。

昨日は本当に力が出ず、一日のほとんどをベッドの上で過ごした。

オユギスの村で鍼灸師のゆうたさんが、色んなことを考えすぎて気が頭に上ってしまっているのだろうと教えてくれた。

気が降りてこないわけだから丹田にも力がなくなり、足元は冷える。

私の冷え性もおそらく頭を使いすぎのところから来ているのだろうと、妙な確信がわいてくる。

そうそう、頭を使いすぎてるんだよ私。

でもそれが分かっただけでも進歩で、となると気を足元に落としてみようと、早速秘密の特訓が始まった。

 

少なくともこうして足元に集中するうちは頭で考えすぎることはないけれど、これを常にキープするのは至難の業だ。

ふと、ヴィッパサナー瞑想で学んだ「身随感」と「心随感」が頭に浮かんだ。

身体で感じる五感と、心で感じる感情は同じ感覚だということ。

心の方が五感よりも優れているという事はない。

それならば、あれこれ考えるのをやめて、風の音を聴いたり、草花を観たり、そういう瞬間をもっと大切にするべきじゃないのかとふと思った。

見えないものに想いを馳せるより、目の前の一瞬を大切にすること。

性格上、どうしても次のミッションを探そうとして悶々と考えてしまいがちだけど、ふと立ち止まって感じることもまた、大切なことなんだろう。

マインドフルネスというやつだ。

 

そうはいっても、恋しい日本。

笑いあった家族、友達。

優しい味のごはん。

あったかいお風呂。

穏やかな人のやさしさ。

 

ケニアに来て初めて、ホームシックになった。

いつもはケニアが好きで好きで、この国を離れたいなんて少しも思わなかったのに。

やっぱりこれまでと一味違う、ケニア。

日曜にナイロビに戻ってきた。

ルシンガ島で過ごした三週間は、パーマカルチャーの学びはもちろん、人との出会いに恵まれた時間だった。

ドイツ、イタリア、フランス、香港、チェコ、日本、ケニア。

バックグラウンドも年齢も異なる10人が集まって営む集団生活は、よいこともあれば上手くいかないこともある。

でも、自分の行動がいかに日本的な基準に基づいているのか、自分自身をフラットな目線で見直すいい機会でもあった。

当たり前だと思う事、それが正しいと思う事、こうあるべきだと思う事。

日本では「常識」の共通認識が、この場では通用しない。

この苛立ちの原因が自分自身の持つ価値基準だと気付いたとき、解決策は相手を責めることではなく、もっとシンプルだった。

ただ、心をオープンにして相手を受け入れること。

そうすれば、私自身が心穏やかで日々を過ごせるのだ。

 

さて、このルシンガでの生活で最も頭を悩ませたのが、水問題だった。

キャンプの始まった当初、私たちの生活用水はタンクの雨水を使用することになっていた。

しかし、10人の大所帯ともなると水の使用量は思ったよりも多い。

日照りが続いたこともあり、タンクの水レベルは3日を過ぎたころから急激に下がり、このままいけば水が底をついてしまうと予想された。

 

そこで、生活用水としてビクトリア湖の水を使用することになった。

私たちの生活する家の裏庭にドラム缶が設置され、そこにビクトリア湖から汲んできた水を溜めて使用するのだ。

8年前に参加した同様のキャンプでは、池から水を汲んできて自分たちで運んだ経験があったので、その生活の厳しさは十分に理解していた。

ただ、今回は水を買うことになったので、自分たちで運ぶ必要はなかった。

水を運んでくれるように人に依頼し、ロバに運ばせてドラム缶を水で満たしてもらうのだ。

 

ドラム缶が水でいっぱいになっているのを見てみんな安堵したが、それも長くは続かなかった。

一日が終わる頃には水量は半分になり、すでに明日、明後日のことが心配になった。

とりわけお風呂が気がかりだった。

みんなお風呂に入りたがったが、残りの水量を見ながら今日はは入れそう、やめておこうと決める。

農作業で流した汗を流せないというのはつらいけど、自分ばかりが毎日お風呂に入るわけにもいかないので、濡れタオルで体を拭いて我慢した。

 

一週間を過ぎたころから、大雨が降るようになった。

今ケニアは雨期。

だからといって一日中降るわけではないけれど、一定の時間にどかっと大雨が降る。

夜間に降った大雨が、半分以下に減ったドラム缶を満たしてくれることもあって、ドラム缶いっぱいの水を見た朝は、まだ大丈夫という安心感をもたらしてくれる。

雨と言えば鬱陶しいと思いがちだけれど、こんな状況に直面すると、雨という自然の恵みに心から感謝の気持ちが湧いてくる。

 

こんな生活でも長く続けると次第に体も慣れてきて、お風呂に入れないならまぁいいやという気持ちにもなってくる。

洗濯はドラム缶の水を使うのをやめて、直接ビクトリア湖にバケツと洋服を持って行って、そこで洗濯をするようになった。

ビクトリア湖の湖岸には、洗濯をする人、真っ裸になってお風呂に入る人もいる。

私ももうここでお風呂に入ったらいいんじゃないかと思うようになってはいたけれど(どうせ使っている水は同じだし)、なんとなく寄生虫バクテリアが不安でどっぷり浸かるのはやめておいた。

でも、入っててもよかったのかな、なんてちょっと思ったりもする。

 

ナイロビに戻って、温水シャワーを浴びる生活に戻った。

快適なんだけど。

 

私が一番好きなお風呂は、ルシンガ島の後に訪れた、知人のゆうたさんの家のお風呂だな、と改めて思った。

たらい一杯の水を、少しずつ沸かした熱湯と混ぜて熱めのお湯にする。

シャワーの代わりにカップでお湯をくんで体に注ぐと、その熱さが日本のお風呂に入っているようでとても気持ちがいい。

シャワーよりも心温まる日本のお風呂。

恋しいな。




寄付

ブルブルを歩いていたら、突然中年のケニア人男性に呼び止められた。

いつものように足を止め挨拶しようと思ったら、そのケニア人は勢いよく話し始めた。

 

あなたは日本人?

10年ほど前に日本に行ったことがあるんだけど、一つ聞きたいことがあるんだ。

 

私が相槌を打つ暇もなく、そのケニア人は続けた。

 

私は国際赤十字で働いているから仕事でいろんな国に行くんだけど、

日本はあんなにお金持ちの国なのに、なんでみんなお金を寄付してくれないんだ?

ヨーロッパへ行けば寄付を呼びかければすぐに、しかも多額の寄付をしてくれるのに、

日本のあれはいったいどうしてなんだ?

難民や貧困や困った人が大勢いるというのに、どうでもいいと思っているのか、現状を知らないだけなのか。

 

あまりに予想外のことを聞かれ、私は絶句した。

そして何と答えたらいいのか返事に困った。

 

彼は続けた。

 

ケニアは日本に比べたらずっと貧しい。

でも、寄付を募れば少ないお金の中から出し合って助け合うんだ。

それなのに日本では多くの人が首を横に振っていたよ。

私は予想していなかったので、驚いてしまったよ。

 

うーん。何と答えよう。

少しずつ言葉を選びながら、答えた。

 

確かに寄付の文化はあまり日本には根付いていないと思います。

だからといって日本人が冷たいわけじゃないですよ。

震災で困った時なんかは寄付が集まりますし。

寄付先の団体を不審に思うこともありますし。

でも、難民や貧困なんかの世界の現状に関して無関心な人は多いと思います。

 

そう言いながら、私も国内の震災時にしか募金に協力したことがないなぁと肩身の狭い思いをした。

支援のあり方として、お金、マンパワー、いろいろあるから、自分にできることをすればいい。

そう思ってきたのだけれど。

 

ケニアにいると欧米から来たボランティアが、帰国後に寄付を募って施設の援助をしていたり、金銭面のバックアップをしていることもよくある。

こういうときに寄付を呼び掛けて、それに応えてパッとお金を出すのが欧米の文化なんだろう。

 

でもこれって、日本はそういう文化じゃないから、と終わらせていい話なんだろうか。

少なくとも、この男性と話をしながらバツの悪い思いをしたのは確かで。

私自身、お金をもっとオープンに使う必要があるのかもしれないなぁと、そんな思いが湧いてきた。

なんせ日本のお金は、錬金術のように大金に化ける。

 

昔はこのお金の価値の差が悔しくて仕方がなかった。

ケニアの人がどんだけ頑張って働いても、日本のわずかなお金にも届かないのだ。

天秤にかけられないものをお金に換算してその価値を図るやり方に、当時はずっと心の中で抵抗していた。

うーん、すごい20代だったな。

 

とりあえず、その赤十字のおじさんとはずいぶん話がはずんでしまって、私がナイロビに戻ってきたらまた会う約束をした。

 

明日からナイロビを離れ、三週間の島生活が始まる。

 

 

 

GIVE

先日、マダレスラムの小学校で歯磨き指導を行った。

この小学校を最初に訪れたのは約三週間前。

友人のギブーにスラムを案内ししてもらい、この小学校に連れてきてもらった。

なぜ戻ってくるのに三週間もかかったのかというと、

一つはパーマカルチャーを追いかけて旅をしていたという事。

もう一つは自信がなかったという事。

昨年ルアイの孤児院で子供相手に歯磨き指導をしてみたけれど、いまいち反応がよくなかった。

大人相手ならば説明するのは比較的簡単だけれど、子供はハートをつかむのが大事。

だから今回はどうしようかなぁと考えあぐねた挙句、開催の日程をずいぶん先送りしてしまった。

でもその間にしっかり準備ができたことも確かで、一冊の絵本を翻訳する間にずいぶんスワヒリ語のしくみも分かってきた。

これはその副産物としてしっかり受け取ろう。

 

今回の歯磨き指導。

一番良かったのは、ローカルの心強いパートナー、ベティがいたということ。

私の言葉足らずな所はしっかりと補ってもらい、分かりにくそうなところはスワヒリ語で説明してもらった。

前回のように孤立無援の状態ではなく、しっかりとした後ろ盾を得て、私自身楽しみながら教えることができた。

質問を投げかけると我先にハイハイと手を挙げて満面の笑みで答えてくれる。

デモンストレーションで前に出てやりたい子を募れば、一斉に手が挙がる。

自分の小学校時代を思い出せば、間違えることや人前に出ることが嫌でしかたがなかった。

こんな風に反応が返ってくる喜びを知ると、もっと授業に積極的に参加すればよかったなぁなんて、学校の先生方に申し訳ない気持ちが湧いてくる。

なぜあの時、このケニアの子たちのように楽しんで学ぶことができなかったんだろうと今更ながら思うけど、きっともうずっと幼いころから、周りの目を気にして生きてきのだろう。

周りの目、世間の目。

日本にいればいつの間にか染み付いてくるこの外からのプレッシャーは、ほんとは自分で作り出した幻だったのだと、今ふと思う。

 

幼稚園クラスの歯磨き指導にはまだ課題は残るものの、一つの実施例から課題を生み出せたこともまた、ひとつ成果だ。

そして協力者のベティも次の開催にとても意欲的で、ぜひ一緒にやりたいと言ってくれている。

今後もしかしたら活動が広がるのかなぁなんて、先のビジョンがぼんやりと見えてきた。

 そして、学校の先生、キリスト教のビショップの方もまた、今回の指導をとても喜んでくださった。

 

見てください、あなたの与えたインパクトを。

 

その視線の先には、ランチの後に一生懸命に歯を磨く子供たちの姿があった。

私にしてみたら、ほんの些細なことしかできないと思っているのだけど、それでも何か一つを変えられるのなら、本当にうれしい。

 

帰り際に、校長先生が袋を持っているか尋ねてきたので、カバンに入っていたスーパーの袋を差し出した。

すると彼女はその袋に豆とお米を入れた。

この学校はもうすぐ終業式を迎えるから、食べ物が悪くならないように持って帰ってちょうだい。

ついこの間寄付の食物をもらったばかりでたくさんあるから、と。

マダレスラムに住むベティならともかく、私がもらうのはなんだか悪いような気がして、私はいいからみんなで分けてちょうだいと言った。

すると校長先生は一言だけこう答えた。

 

I learned how to GIVE from my mother.

私はお母さんから「与えること」を学んだのよ。

 

'GIVE'

なんだかこの言葉が感慨深かった。

私が行っていることもGIVEで、そしてそれがGIVEとして跳ね返ってくる。

与えて、与えて、それが世の中を回っていく。

それは単なる報酬としてのRETURNではなく、その人の愛が込められている。

そうして回るGIVEは代替として、時にお金に換算されるのだろう。

仕事もそうだ。

自分が何をGIVEできるか。

会社側もフェアにGIVEするのなら、安月給も過労も、ほんとはないはずなのに。

いろんなことが頭をめぐる、GIVEの学び。

 

キベラスラムで考えた

キベラスラムに初めて足を踏み入れた。

思ったほど環境はひどくない。

それでも土壁、トタン屋根の家がひしめき合うように立ち並び、

日中でさえ陽の光も差し込まないような場所で家族が肩を寄せ合って生活している。

その姿に悲壮感はなく、そこには生き生きとした「生」があるだけだ。

彼らをかわいそうと呼ぶのがふさわしいのかは分からない。

ただ、私はキベラスラムに来ることができて、彼らは私の住む場所に来ることはできない。

私はスラムの生活を観察して、そしてトイレ、お風呂のある一軒家へと帰ってゆく。

とあるママのお家に招き入れてもらったが、私がなぜその家にいるのか、じろじろと人の家を観察しているのか、果たしてここに来る意味があったのか分からなかった。

 

 

昨日ブルブルの友人と話をした。

床屋さんを営むその彼。

大量についた歯石を見て、それは取った方がいいよと勧めるのだけれど、お金を払ってまで歯石をとりたくないという。

チアキ、それが「必要」だと思う人間もいれば、「贅沢品」だと思う人もいるんだよ。

特にここケニアではね。

 

今痛みがあってどうしようもなくなれば病院へ行くだろう。

でも、先手を打って病院へ行くことはしない。

床屋さんのその彼は私よりも一つ年下で、でも、もし歯がなくなったらそれまでだ、そう話していた。

この歯石をとればリスクが減らせるのに。

そう思いながら、もどかしかった。

でも、それが実情なのだろう。

こんな考えのケニアの人たちを相手に、ほんとに歯磨き指導なんかやる意味があるのだろうか。

今この一日を生きるケニア人に、先の未来のために予防を考えろというのは、私の自己満足ではなかろうか。

そう思い始めていた。

 

今日キベラスラムを案内してくれた30代後半?の男の人。

彼は上下の前歯を失っていた。

私たちが揚げたてのアンダジ(かたい揚げパン)をほおばる中、彼はいらないと言った。

歯がないから嚙めないんだよ。

 

おいしいものを食べられない。

だからと言って入れ歯を作ることもできない。

やっぱりここでは予防するしかない。

 

いろいろ意見はあるのだろうけど、私がいいと思ったことをやる。

一人でも誰かの心に留まり、行動が変えられるように。