☆ぐんぐるぱーにゃ☆な暮らし

なんやかんやとたどり着いた、ぐんぐるぱーにゃ。当たり前のようで当たり前じゃない。そんな世界が、目の前に広がっている!ありがとう、そしてさようなら昔のわたし!これから始まる「わたしライフ」をこそこそと綴っていきます~

日曜にナイロビに戻ってきた。

ルシンガ島で過ごした三週間は、パーマカルチャーの学びはもちろん、人との出会いに恵まれた時間だった。

ドイツ、イタリア、フランス、香港、チェコ、日本、ケニア。

バックグラウンドも年齢も異なる10人が集まって営む集団生活は、よいこともあれば上手くいかないこともある。

でも、自分の行動がいかに日本的な基準に基づいているのか、自分自身をフラットな目線で見直すいい機会でもあった。

当たり前だと思う事、それが正しいと思う事、こうあるべきだと思う事。

日本では「常識」の共通認識が、この場では通用しない。

この苛立ちの原因が自分自身の持つ価値基準だと気付いたとき、解決策は相手を責めることではなく、もっとシンプルだった。

ただ、心をオープンにして相手を受け入れること。

そうすれば、私自身が心穏やかで日々を過ごせるのだ。

 

さて、このルシンガでの生活で最も頭を悩ませたのが、水問題だった。

キャンプの始まった当初、私たちの生活用水はタンクの雨水を使用することになっていた。

しかし、10人の大所帯ともなると水の使用量は思ったよりも多い。

日照りが続いたこともあり、タンクの水レベルは3日を過ぎたころから急激に下がり、このままいけば水が底をついてしまうと予想された。

 

そこで、生活用水としてビクトリア湖の水を使用することになった。

私たちの生活する家の裏庭にドラム缶が設置され、そこにビクトリア湖から汲んできた水を溜めて使用するのだ。

8年前に参加した同様のキャンプでは、池から水を汲んできて自分たちで運んだ経験があったので、その生活の厳しさは十分に理解していた。

ただ、今回は水を買うことになったので、自分たちで運ぶ必要はなかった。

水を運んでくれるように人に依頼し、ロバに運ばせてドラム缶を水で満たしてもらうのだ。

 

ドラム缶が水でいっぱいになっているのを見てみんな安堵したが、それも長くは続かなかった。

一日が終わる頃には水量は半分になり、すでに明日、明後日のことが心配になった。

とりわけお風呂が気がかりだった。

みんなお風呂に入りたがったが、残りの水量を見ながら今日はは入れそう、やめておこうと決める。

農作業で流した汗を流せないというのはつらいけど、自分ばかりが毎日お風呂に入るわけにもいかないので、濡れタオルで体を拭いて我慢した。

 

一週間を過ぎたころから、大雨が降るようになった。

今ケニアは雨期。

だからといって一日中降るわけではないけれど、一定の時間にどかっと大雨が降る。

夜間に降った大雨が、半分以下に減ったドラム缶を満たしてくれることもあって、ドラム缶いっぱいの水を見た朝は、まだ大丈夫という安心感をもたらしてくれる。

雨と言えば鬱陶しいと思いがちだけれど、こんな状況に直面すると、雨という自然の恵みに心から感謝の気持ちが湧いてくる。

 

こんな生活でも長く続けると次第に体も慣れてきて、お風呂に入れないならまぁいいやという気持ちにもなってくる。

洗濯はドラム缶の水を使うのをやめて、直接ビクトリア湖にバケツと洋服を持って行って、そこで洗濯をするようになった。

ビクトリア湖の湖岸には、洗濯をする人、真っ裸になってお風呂に入る人もいる。

私ももうここでお風呂に入ったらいいんじゃないかと思うようになってはいたけれど(どうせ使っている水は同じだし)、なんとなく寄生虫バクテリアが不安でどっぷり浸かるのはやめておいた。

でも、入っててもよかったのかな、なんてちょっと思ったりもする。

 

ナイロビに戻って、温水シャワーを浴びる生活に戻った。

快適なんだけど。

 

私が一番好きなお風呂は、ルシンガ島の後に訪れた、知人のゆうたさんの家のお風呂だな、と改めて思った。

たらい一杯の水を、少しずつ沸かした熱湯と混ぜて熱めのお湯にする。

シャワーの代わりにカップでお湯をくんで体に注ぐと、その熱さが日本のお風呂に入っているようでとても気持ちがいい。

シャワーよりも心温まる日本のお風呂。

恋しいな。