2016年
今年一年どんな年だったかと振り返ってみると、とにかく信じられない。
この何年も溜め込んできた想いやコツコツ動いてきて来た、そんなものすべてに決着をつけるというか、ちゃぶ台をひっくり返すようにすべてを投げ捨てるというか。
それくらい、縦にも横にもジャンプしまくって、目をつぶったまま嗅覚だけを頼りに、ぼうぼうの草むらを突き進んできた。そんな感じだ。
青年海外協力隊への応募と落選、
そこからケニア出発がなんとなく決まって、
氣功師養成講座で生命と氣について学んで、
何年かぶりにオールナイトで遊んでみたり、
時に都会のど真ん中で瞑想してみたり。
日本の社会のことを必死に考えて、
選挙とか、原発とか、沖縄基地とか。
それからパーマカルチャーに出会って少しだけ今後の方向性が見える中で、
ケニアに来てまずは医療キャンプだけど内心はそれからが本番で、
パーマカルチャーをさらに追求してみたり、
心をオープンにして自分自身が平和となって生きることを実践してみたり、
とにかく何もないところから探して探してここまできた。
ケニアに6カ月も来て何をしてるんだとケニア人に何度も聞かれたけど、私はただのホリデーとしか答えられなかった。
でも、本当はそうじゃないんだ。
今ここにいることの価値を私自身が一番認めているから、誰に何と思われようと、そんなことはどうでもいいんだ。
そして今年は、女性としての本能が長い眠りから目を覚ました年でもあった。
5年間遠距離恋愛をした彼。
彼のことはとっくに吹っ切れてはいるものの、そのインパクトは大きく、なかなか呪縛から抜け出せなかった。
でも、今年の私はもう真っ裸で砂浜を駆け回るような感じだ。
大得意の理性には少し黙ってもらって、心の動くまま、感じるままに恋をした。
思いもかけず、結婚について深く考えることにもなった。
人はなぜ結婚するのか。
結婚と恋愛は違うのか。
男性性と女性性の違いと役割分担についても考えた。
自分の気持ちが相手へ抱く愛なのか、自分を愛してほしいという欲なのか。
だだこの人を好きで一緒にいたいという気持ち。
この瞬間瞬間の気持ちが愛であり、その気持ちへのコミットメントと生活づくりが結婚の場だと知った。
そして好きという気持ちはただの感情であり、水のように流れていくものだから、今どんなに濃密な時間を過ごしたとしても明日は一緒にいられないという状況も、もうこれで会うこともないかもしれないという状況も、すべて受け入れることができた。
好きという相手への気持ちを自問自答する中で、私の中で越えられない壁となっている5年間の恋愛が、いかに執着と妄想に縛られていたかを知った。
気持ちが流れるものだと知った今、一つの愛に縛られる必要もない。
どこか農業のできる場所をベースに家庭を作りたくなるまで、結婚はいい。
そう思っていたはずなのに。
ここ来て思いもよらず出会うことになってしまった。
私はもう自分の気持ちがどう流れていくのかなんて分からないから。
そう伝えても、彼は私との未来をまっすぐと見ている。
その力強さは以前の私を見ているようで。
おそれていた母との関係も思い出す。
お金も愛も、ここにきて自分自身のコンプレックスと向き合うことになりそうだ。
こんなわけで、この1年に残してきた自分自身の軌跡を振り返りながら、これから続いていく道を思う。
でも、今どんだけ思っても、歩み始めてみないと分からないのだ。
人生の学びをもらった2016年に感謝して。