おとん
久々に夢を見た。
おとん。
夢の中ののあなたも、病気で苦しんでいましたね。
やはりあなたの存在は、いのちとは、生きるとはについて教えてくれる。
もう今頃は、どこかに生まれ変わっているのかしら。
一目会えたら、と思うけれど。
二人きりでしたケニア旅行を、ここにいる間はずっと思い出すんだよ。
去年書いた日記を、忘れないように。
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おとんといえば、仕事用の青い作業服。
釣りが好きで、ビールが好きで、潮干狩りが好きで。
癖で鼻をほじっては母に怒られていた。
麺が好きだから「麺きち」、
子供のような大人だから「おども」。
これが我が家での愛称だった。
「お父さん」と最後に呼んだのはいつだったか。
いつのまにか、おとんはおとんになった。
大した学歴はなかった。
高校を出て国鉄に入社し、当時血気盛んな労働組合で精力的に活動していた。
国鉄の解体を機に仕事を辞め、名古屋から敦賀にやってきた。
男の人には珍しく、婿養子だった。
敦賀に来たと同時に、名前も鷲見から濱村になった。
そこにこだわりはなかった。
自分から立ち上がるタイプではなかった。
でも、人からの頼み事を断ることはなかった。
地元の消防団、地域の壮年会。お寺の檀家業。
学校のPTA会長を務めたこともあった。
誰もが煩わしいと思うことをいつの間にか引き受けていた。
母は断ればいいのに、とぼやいていた。
今年に入り、急速に脚が動かなくなった。
そしてついに立てなくなった。
それでも布団で寝たきりでいるわけにはいかないと、車輪付きのすのこに座椅子を自ら縛り付けた。
痛みをこらえてそこによじ登り、おとん主導のもと居間までの大移動が行われた。
すのこでガラガラ引かれるおとん。
母と二人、こんな時に不謹慎だけど、妙な光景に吹き出してしまった。
人前で泣く人ではなかった。
実父が他界した時でさえ、声を震わせることはなかった。
入院中も、こんな情けない姿を見せられないと、病状を公にはしなかった。
それでも来てくれる会社の一部の人には、こんなことになってすんません、と謝っていた。
家に帰りたいかと聞いても、そんな大変なことはせんでもいい、
病院に運ばれた時からもう帰れないことは分かっていた、と言った。
いつの間にか、すんませんとありがとうが口癖のようになった。
看護師さんが病室に来るたび、テレビやラジオのスイッチを切った。
じっと静かに仕事が終わるのを待ち、毎回お礼の言葉を口にした。
毎週末大阪から病院に駆けつけ泊まるたびに、すまんなぁ。
手を、脚を洗うたびに、氷枕を替えるたびに、歯を磨くたびに。
申し訳そうなおとんを見て、胸が痛かった。
すまんことなんて一つもなかった。
ある晩、苦しくてどうしようもなくなったら眠る薬を使いたいと言った。
そして余計な点滴などせずに、死んだら死んだでそれでいいと言った。
そうしてもいいか、と聞かれたので
おとんが望むならそれでいいよと答えた。
翌朝の回診で、主治医の先生に自らその方針を伝えた。
それから一週間。
今から例の薬を入れるから早く連絡をちょうだいと母からメールが来た。
眠ってしまったらもう話をできないからと。
こんな時に充電の切れそうな携帯を握りしめて、泣きながら駅の公衆電話に向かった。
おとん、弱々しい声で、自慢の娘だ、よかったと言った。
3日後、心拍数が落ちていった。
ずっと苦しんだ痰のせいでもなく、母に泣いて引き留められるわけでもなく、妹ひとりに見守られ穏やかに息を引き取った。
駆けつけた時にはまだ少し温かかった。
母と妹と。みんなでおとんの体を拭いた。
初めて見た背中の大傷、オペ後二か月も経つのに塞ぎきらない傷。
あんな大きなオペをして、抵抗力のない体で。
そりゃ痛いよね、苦しいよね。
おとん、がんばった。
おとんが薬を使ってもいいかと言った晩、ふたりきりの病室でこんな話をした。
こんな風に苦しみながらではあるけど、想いを伝えることができてよかった、
年功序列で、おじいの次に逝くのが自分でよかった、
こんな大病をするのが、家族の誰でもなく自分が引き受けてよかった、と。
姉夫婦にも、病室で教え諭す姿があった。
何があっても子供は最優先だ、自分たちの事情は二の次だと。
声はかすれて弱々しかったけれど、そんなこと気にも留めず延々と繰り返す。
その姿には凄まじさを感じた。
こだわりや執着を見せないおとんの信条。
何よりも子供が、いちばん。
おとんを思い出すとき、真っ先にこの闘病生活が頭に浮かぶ。
親孝行などできなかった。
心配ばかりかけて、花嫁姿も孫の顔も見せてあげることができなかった。
その代わり、思いつく限りの全てのことをした。
呼吸が苦しい時には、おなかを押して呼吸を手伝い、
眠れないときには安眠効果のある音楽を流し、
だるくて居ても立っても居られない時には、体をさすり、
体のことを知るために、東洋医学を勉強し、
がんの進行を抑えるために、食事療法を研究し、
心が苦しまずにすむように、ありとあらゆる本を読んで、おとんに伝えた。
全身全霊をこめた愛情、伝わってるかな。
きっとそのはず。
今年もまたケニアに行きます。出発は三日後。
おとんが見せた父親の姿。最後の教え。
そのとてつもなく巨大なものを受け取って、またひとつ強くなった。
おとんにはかなわないとは思うけれど。
今年はひとあじ違う自分。
ケニア出発前の浮足立った気持ちもなく、ただ淡々とその日を待っている。
現地で一体何を思うだろう。
自分でもわからない。
(2015.9.8)
旅の目的
ケニアに何をしに行くのだろう。
出発前にずっと考えていた。
でも、いくら考えても答えが出ないのだろうと思った。
実際にそこに行くまでは。
積年の想いを開放するためなのか。
歯磨き指導をするためなのか。
農業に触れるためなのか。
ざっくりとした大枠はあるような気がするけど、それを明確にするのは雲をつかむような話で。
何も決まらないまま、ただケニア行だけが決まっている。
そんな感じだった。
こんなあやふやなまま出発するのは楽しみと同時に不安もあって、医療キャンプの最中も、この先の生活が不安でストレスを感じていた。
ケニアに来てひと月。
少しずつ見えてきた、今回の旅の目的。
今一番来ている流れがパーマカルチャー。
ラスタの農園のあるムランガ。
タンザニアから来たパーマカルチャーに熱い日本人との出会い。
ナイロビの一企業のなかで実践されているアーバンパーマカルチャーの現場。
そしてまた導かれるように、来月の予定も決まった。
偶然が重なって知り得たパーマカルチャーのプログラム、ベーシックな知識から実践まで体験できるというから、聞いてすぐに行くことに決めた。
もうこの流れに乗って行けと、見えない力に後押しされているような感じ。
それに加えて歯磨き指導も少しずつ動き出してきた。
色んな人や価値観に触れる中で、医療に携わること、歯ブラシを推奨することが正しいのか分からなくなっていたけれど、少しずつ自分の中で折り合いもついてきた。
あとは自分が正しいと思ったことをやる。
それだけだ。
パーマカルチャーの理論を勉強する中で学んだ。
「問題にフォーカスするのではなく、解決策にフォーカスすること」
どんな難題にも必ず出口はあるはずだから、もしかしたらそのデメリットはメリットになるかもしれないということ。
なんて東洋的な考え方。
陰陽のマークが頭に浮かんだ。
なぜケニアにきたの?
この問いに対し、今ひとつ答えが出た。
それは、これからのライフスタイルを探すため。
自分がどんな価値観を軸にして生きていくのか、その軸をしっかり養って次のステージに進むための準備をしよう。
それが今回の旅の目的ならば、確実に前に進んでいる。
この調子。
待ち合わせ
2週間前、ケンちゃんのママに毎週火曜日に開かれるマサイマーケットに連れて行ってもらった。
たくさんの品物が並ぶ中、最も目を引いたのは、サンダルを売っているラスタマン。
が、口にくわえている木の歯ブラシだった。
木の歯ブラシについて尋ねてみると、彼はいろいろ教えてくれた。
それがムキニーという種類の木の枝であること。
そしてカバンからニームという種類の木の歯ブラシも取り出し、これらの木には薬効があって、これを使い出してから歯のトラブルがなくなったこと。
これらの木は彼の地元のムランガという村から持ってきたものだということ。
そして話し続けていくうちに、彼はこのムランガという村でオーガニックファームを営んでいると知った。
私もオーガニック、興味あるの。ねぇ、パーマカルチャーって知ってる?
半信半疑で聞いてみると、彼の答えはYesだった。
パーマカルチャ知ってるよ。これからの時代に大事だね。
エコロジカルで持続可能な生き方。
来週は火曜日からンゴング通りのショーに行くけど、週明けには一度村へ帰るよ。
私がケニアに来てやりたかったことの一つがこのパーマカルチャーを探ることだったから、彼の言葉にすぐさま飛びついた。
私もムランガに行きたい。一緒に行ってもいい?
こうして私のムランガ行きが決まった。
一緒に行ったケンちゃんのママには、ラスタマンなんて信用しちゃだめと反対されて、もし行くならオティエノと一緒に行きなさいと言われたけれど、それじゃあ面白くない。
私の旅に保護者なんていらない。
私たちはお互いの連絡先を交換して、その場を後にした。
でも、いくら人がよさそうとはいえ、見知らぬラスタマンと遠出するなんて無謀だったかなぁと自信がなくなってきたもんだから、もう一度会ってムランガ行きの話を詰めることを提案した。
じゃあ明日ショーに来てくれるなら会えるよ。
入場料は300シリング。
朝の九時に会おう。
このメッセージを受け取って開催地を確認しようとした時点で、私の携帯クレジットがなくなってしまった。
もう夜も遅かったからクレジットも買いに行くこともできない。
まぁいいや、とりあえず朝早く家を出てクレジットを買って電話すれば場所も分かるだろう。
ラスタだからレゲエのショーかしら。
朝の九時ということは、自分の出番の前に話をするということかしら。
一人でレゲエショーとか、大丈夫かな。
そう思いながらマギーに一連の話をした。
明日の朝、早く家を出て農業をしてるラスタに会いに行ってくるね。
どこかのショーみたいだけど。
ンゴング通りとか言ってた気がするけど。
マギーは答えた。
おぉちあき、ちょうど今そのあたりで農業フェスティバルやってるけど、それをあなたが知ってるなんて知らなかったわ。
農業フェスティバル?なんかそれっぽいけど、でも彼はショーと言ってたし、それじゃないかも。
とにかく明日確認すれば済むことか。
そう思いながら、その日は何となく眠れない時間が続いた。
翌朝、できるだけ早くバスに乗った。
なんせ行先も分からないうえに待ち合わせ時間も早い。
もしンゴング通りならステイ先から距離もあるし、もしかして違う場所かもしれないし、とりあえずタウンに出ておけば間違いないはずだ。
そしてクレジットを購入してラスタにメッセージを送った。
今からバスでタウンに行きます。ショーの開催場所とバスの降り場を教えてください。
それから返事もないままバスはタウンに着いた。
朝の七時半。
まだ時間に余裕もありそうだから、近くのカフェに入って返事を待ったものの、八時になっても返事が来ない。
そろそろタウンを出ないと待ち合わせにも間に合わない。
そして彼に電話をかけた。
・・・つながらない。
これ電源がオフになっているやつだ。
さぁ困った。これじゃどうしようもない。
どこに行っていいのか分からない。
とりあえずンゴング通りの農業フェスティバルの可能性はあるけど、お店の場所も分からない。
もしかしてと思いながら携帯で調べると、一つヒットした。
農業フェスティバル。
場所:ンゴング通り、ジャムフ・リパーク
入場料:子供250シリング、大人300シリング。
朝九時開園
ビンゴ!
すぐさまカフェを出てバスを探した。
携帯を見せながら目的地を説明すると、こっちだ、ここだ、とみんなが教えてくれる。
到着したら教えてとお願いして、私はウキウキしながらバスに乗った。
待ち合わせ場所のない待ち合わせに私が時間通りに到着したら、ラスタはびっくりするだろうなぁなんて想像すると、ニヤニヤがとまらない。
九時ちょうどにジャムフリ・パーク着いたところで、見知らぬ番号から電話があった。
ラスタからだった。
ごめんね、携帯電話の充電が切れて。
今友達の携帯からかけているんだけど。
私は今彼がどこにいるのドキドキしながらか尋ねた。
ジャムフリ・パークだよ。
もしも彼がマサイマーケットでンゴング通りのショーの話をしていなかったら。
もしも私がマギーに相談していなかったら。
もしもマギーが農業フェスティバルのことを知らなかったら。
この待ち合わせには確実にたどり着けていなかった。
色んなものに後押しされて、さぁムランガへ行って来いと後押しされている。
そんな気がする。
ムランガへの出発は明日。
どんな旅が待っているだろう。
静かな夜
ケニアでは時々停電がある。
それは突然始まって、その場に一気に静寂をもたらす。
音楽の大好きなケニアの人たち。
普段は家の中には必ず音楽か、FMラジオかテレビの音が鳴り響いているのだけれど、
この時ばかりは音のない世界になる。
特に夕食時に起こる停電はなんとも言えない雰囲気があって、
食器のカタカタという音、
遠慮がちにささやき合う人の声、
ランプから漏れるあたたかい光に包まれて、
食事と人と、向き合う時間となる。
みんなが停電でため息を漏らす中、なぜだか私はこの光景が好きで好きで、
子供の頃に停電でわくわくして、懐中電灯ひとつに家族みんなが集まった、
そんな夜を思い出すんだ。
再会
8年前ケニアで出会ったその彼は、ステイ先の家に突如現れた。
3週間のワークキャンプから帰ってくると家には見知らぬドレッド頭の男性がいて、ただの来客かと思ったら、いつの間にかその家に住む一員になっていた。
もの静かで落ち着いた雰囲気の彼。
朝早くからノートパソコンを開いて何やら仕事をしている。
初めて口をきいたのは、確か出会って2・3日後のことだった。
それくらい彼の存在は、いち風景として溶け込んでしまっていた。
彼の名はギブソン。みんなからはギブーと呼ばれていた。
当時私のステイ先は同世代の若者が多く、いつもにぎやかだった。
他国からのボランティアやケニア人の若者がしょっちゅう出入りしていた。
私はワイワイするのも好きだけど、静かに穏やかに過ごすほうがもっと好きだったから、その点で私はギブーと合った。
英語がそれほど得意ではなかった私だけれど、落ち着いた彼の口調のなかで、私は自分自身を表現することができた。
ギブーは自分のNGOを立ち上げたところだった。
コミュニティのために尽くしたいんだ、と。
そう静かに話す彼の姿は21歳の私にはとてもまぶしくて、いろんな話を聞きたがった。
私は彼を尊敬していた。
ギブーと一度だけ深い話をした。
彼の左手の薬指に光るリングについてだった。
軽く尋ねたそのリングについて彼は予期せぬ答えをくれた。
これはコミュニティのために人生を捧げると誓った証なんだと。
そう言った彼の瞳はまっすぐ前を見ていた。
あの日は晴れた昼下がりで、私たちは家の前の庭で話をしていた。
その光景がいまだに忘れられないほど、彼の言葉は私にとっては衝撃だった。
生きるとは、働くとはについて真剣に考える、まさに原点だった。
日本に帰国して間もなく、ギブーの音信は途絶えた。
翌年ケニアに行った時も、それから度々訪れた時にも、会うことはなかった。
唯一聞いていたのは、彼は大きな失意の中にいて、酒に溺れ、ステイ先の友人にも多大な迷惑をかけ、何も食べずに瀕死の状態になってスラムに戻っていったという事だった。
信じたくはなかったが、それが真実だろうと思ったのはここがケニアだからだ。
そんなことはあり得る話だ。
ひとたび不遇に見舞われれば、弱い人間は落ちるところまで落ちる。
それがケニアだ。
それでも私は信じたかった。
彼の芯の部分は腐ってはいないと。
いつか必ず戻ってきてくれると。
時は流れ、昨年ごろからFBの中でスラムで活動している様子がアップされるようになった。
以前のドレッドをやめ短く丸めた頭で、以前にも増して精力的に動いている姿が見られるようになった。
私の知っているギブーだ。
彼の姿を見て私はとても嬉しかった。
いつか絶対に戻ってくると私は信じていた。
そしてその時は来た。
ギブーとの再会を、私は他の誰よりも待ち望んでいた。
きょろきょろと探す私よりも先に、ギブーは私のことを見つけ出し、私たちは大きなハグをした。
彼はこの7年間について話し始めた。
自分の弱さの数々を、そしてその弱さとどう向き合ってきたのかを。
彼は言った。
「当時は自分が欲しいものばかりを考えていた。家、家族、子供、成功、お金。なぜ自分には無いのかと思うと苦しかった。でも、スラムでの活動に少しずつ参加していく中で、自分にないものではなく自分が人に与えてあげたいものにフォーカスしていくようになった。そうすると自分のことは気にならなくなり、それどころか今はスラムを変えていくことが自分の全てだと思ってる。昔は家庭という居場所が欲しくて女性を追っかけていたけど、もう追いかけるのはやめたよ。」
私にも言えないであろう後悔の数々を背負って、それでも前を向いて動き始めたギブー。
自分の中に自分を見つけたという彼の言葉は、やはり私自身と重なるものがある。
私の過ごした7年間。彼の過ごした7年間。
お互いに簡単ではなかったけれど、経験から学んで、笑って今ここにいる。
それが何よりも嬉しい。
ギブーの育った、そしギブーが変化を願うMathare Slum。
明後日連れて行ってもらえることになったので、私にできること、考えてみよう。
引っ越しの引っ越し
プムワニでの医療キャンプを終えてからケンちゃんのお母さんのおうちに引っ越してきた。
ナイロビの郊外でとっても静かなところ、カハワ・スカリ。
おうちもすごく大きくて、庭にはマンゴー、パパイヤ、ベリーなどなど、フルーツの木がたくさん。
裏庭にはニワトリが三羽いて、日も昇らない頃からニワトリが鳴きわめていている。
赤土の道を歩いていくとそこには小さなマーケットがあって、そこでは最低限の生活必需品が手に入る。
もう少し離れたとこにはスーパーもあるので生活に支障もない。
おうちの大きさや雰囲気を察すると、ここはケニア人の中でも中の上クラスが住んでいるのだろう。
ママはとっても気さくな人で、私のことを気にかけてくれる。
ケンちゃんのいとこのOtienoはかつて中国に2年間住んでビジネスをしていたという。
ケニアの装飾品を売る小ビジネス。
中国に入って言葉も覚え、国内を渡り歩いて生活していたそうだ。
そのへんの行ってみようやってみよう精神はケニア人はあっぱれだと思う。
一つ迷惑なのは、彼はやたらと中国語を教えてくる。
スワヒリ語で何て言うのかと聞いても必ず中国語訳がついてくる。
スワヒリ語なのか中国語なのか、ややこしくてごちゃごちゃになるからやめてほしい。
そして数秒おきにwhateverの単語が入ってくるのも気になるところだ。
現在無職の彼。
日本でビジネスがしたいからなんとかならないかと聞かれるけど、私に何かできるはずもない。
ケニアに進出している中国企業のもとで働いてはどうかと提案した。
まずは目先の生活を考えて、しっかり資金を作ってから日本に挑むのが筋だが、そこらへのケニア人の無計画さは何とかならないものかと思う。
ここで滞在中の時間を過ごすというのが当初の予定だったけど、そうもいかなくなった。
もともケンちゃんから何も気にせず住んでよいと聞いていたので、せめて自分にかかる生活費だけ支払って住まわせてもらおうと思っていた。
ところがその滞在費についての話をもちかけると、ママは一日1500シリングを要求してきたのだ。
日本円で1一シリング約一円。つまり一泊1500円。
75日間の滞在で10万円超すことになる。
そんなビジター価格を要求されると思わなかったので、それは予想外だと話すと、食事なしで1000シリングでいいという。
いやいや、わざわざ郊外の知らないところに住んで、ビジター価格、食事なしとか無いでしょう。
すぐさまいつものブルブルの友人Maggieに電話し、彼女ならいくらで住ませてくれるか確認した。
まぁチアキ、一日1500シリングなんてありえない。それはホテル価格よ。
一日二日の滞在ならいいけど、長期滞在す人に請求する価格じゃないわ。
チアキは友達だから一カ月10000シリング泊めててあげるからこっちにいらっしゃい。
おぉMaggie、かつて8カ月住んだ私のホーム。
慣れ親しんだブルブルの町。
カハワ・スカリのように静かで落ち着いた雰囲気はないけれど、少し騒々しい感じも、大きなスーパーが近くてそこでぶらぶらする楽しみも、ごちゃごちゃのマーケットで買い物をする感じも、実はとっても好きなのだ。
何よりMaggieには何も気を遣う必要が無い。
ケンちゃんのママだからこれ以上お金の交渉はしたくなかった。
彼女には彼女の予算がある。私には私の予算がある。
それが近ければ話し合いでうまくいったのかもしれないけど、あまりにかけ離れている。
お互いにハッピーでない道を選ぶ必要は私にはもう無かった。
私にはブルブルに居場所があるのだし。
結局ママとはしっかり話し合いをして、次の日には出ていくことにした。
二泊分の3000シリングを払って。
それでもママは私のことを気にかけてくれて、申し訳ないと思ったからか、最後の晩には高級そうなワインを出してくれて一緒に乾杯をした。
ケンちゃんに私のことを頼まれて最後までよくしてくれた、いいお母さんだろうと思う。
最後に近所に住むケンちゃんの妹か姉だか、Peresも会いに来てくれた。
ここには住めないけれどまた時々遊びに来ると約束し、タクシーでカハワ・スカリを後にした。
いろいろ話をしてくれたケンちゃんには申し訳ないけれど、これはもう仕方がない。
引っ越しを決めてから少しチャットをしたけれど、彼は私が出ていくことをとてもがっかりしていた。
なぜ決めてしまう前に二人とも自分を通してくれなかったのか、解決策はあったはずなのにと責められた。
でも、これは私の問題。自分のことは自分で決める。
いろんな人の助言は、時々相手をコントロールするものだと、ここでも改めて思う。
ケンちゃん。
ごめんね、ありがとう、許してね、愛しています。
このホ・オポノポノが彼に届きますように。
そして今、Maggie宅の自室でブログを書いています。
Maggieに私のやりたい事や興味のあることを話すと、どんどんほしかった情報が入ってくる。
ここにいるとなんの気を遣うこともなく、ようやく夜中に目が覚めることもなく熟睡できるようになった。
ようやく思い通りに動き出したケニアでの生活。
まだまだ序盤に過ぎないけれど、頭にはすでに雑多な計画が浮かんでいる。
この引っ越しの引っ越しも、きっと起こるべくして起こったのだ。
万事が順調。
臆さずにいこう。